今日もしおれ気味。

前向きも良いけど、私は今日も大体しおれ気味。

「生産性」という言葉を考える

数年前から「生産性がない」という言葉をよく聞くようになりました。

 

働くことのできない人(納税できない人)、子どもを持たない・持てない人(未来を担う者をつくらない・つくれない人)や、人の手を借りなければ生きていけない病者・障害者に生活保護受給者(ざっくり言ってしまえば税金で生きていく人)かな。

今のところ、私が見てきた中で「生産性がない」に分類されるのはこういう人たちではないかと思っています。

 

いつの世も厄介者らしい

さて、ふと思い返してみると、以前は前述の人たちのことは「社会のお荷物」と表現されていました。

「社会のお荷物はいなくなればいい」とか、そういえば言われていましたよね。

なるほど、私は社会のお荷物とやらに属するのかと特に何の感慨もなく思ったことがあります。

 

でも今はそういう言葉はとんと聞かなくなりました。

「生産性がない」という言葉に取って代わられた感が、個人的にはあります。

 

☆ 

この「生産性がない」という言葉は、なんとなく正しいことを言っているような力強さを持っているのが厄介だと感じています。

「社会のお荷物」という表現は割と直球に悪口です。

でも「生産性がない」という言葉を使うことで、それがあたかも正論であるかのように言えちゃうし、なんならSNS等で堂々と「生産性がない」人たちを批判しています。

 

 だから私も以前は

「私だって納税者の夫のお弁当を作ったり、支えているから生産性がないなんて言わせない!」とか言っていました。

 

では、例えば周囲のケアなくして生きることのできない人たちは生産性がないのか。

そんなことない。

そんなことないのに、生産性という言葉の前では反論しにくい。

だけどどうして他者から「生産性がない」だのと言われなくちゃいけないのか。

そういう、小さな引っ掛かりがずっと心にありました。

 

でもだんだんと、そもそも生産性の有無を人に当てはめて議論すること自体ばかばかしいことなんじゃないの?と思うようになってきました。

 

 

「生産性」という言葉は本来は経済学で使われる用語で、生産活動(モノを作り出すこと)に対してどれだけ生産要素(労働・資本)が貢献しているかの程度を示すこと。

(いろんな辞書だのサイトだのを調べたのでこれという引用元はありません)

 

もちろんただ労働力や資本を投じれば貢献度が増すわけではなくて、生産要素である労働(者)の質の向上のための労働環境改善や、自然環境への配慮が必要です。

だから生産性を考えるとき、それを「人間」に丸ごと当てはめて

「人間が人間の社会への貢献度(生きる価値)を評価する」なんて、ちゃんちゃらおかしいと思うに至ります。

 

  

要するに、人はいつだって厄介者を作りたいんだろうなと感じています。 

生産性うんぬんの言葉が下火になれば、きっと新しい言葉が生まれるのではないでしょうか。

 

それでも私は人間だから

それにしてもみんな、自分は大丈夫だと信じ切っているのが不思議です。

人はいつ病気になるのかわかないし、事故等で障害者になるかもしれない。

それでもいろんな課題を克服し、世間も絶賛するような「生産性がある」状態になれる人なんてほんの一握り。

 

「生産性」を語るとき同時に、

そもそもそういう病気の子どもや人が助かること自体が自然の摂理に反する問題だ!

…という「自然の摂理守るの一番説」を唱える人も少なくありません。

身体的・社会的に弱い人たちは自然淘汰されるべきであり、わざわざ救いの手を差し伸べる必要はない、と。

 

まあねぇ…そう言われちゃえば確かにそうなんだと思います。

先天性心疾患である私は人間でなければ今こうして生きていることはないでしょう。

 

そうなんですよね。

私、人間なんですよ。

 

自然の摂理に反し続けることは良くないのかもしれません。

確かに人間(人類)は過ちを犯してしまうし、反省しなきゃいけないことがたくさんあるでしょう。

 

それでも人間は選んだんです。

「目の前の命を救おう」って。

だから医療が進歩した。福祉が誕生した。

他の動物では選ばなかった道を、人間だからこそ選んだのだと思うのです。

 

今いる医療者も皆、目の前の命を救いたいと思ってくれているはずで、だからあんな「先生過労死しませんか?大丈夫?」てな状況でも共に生きる道を模索してくれている(それが良いとは思っていません。医療者の労働環境改善を願っています)

だから(不備も多々あるかもしれないけれど)福祉制度が発達してきた。

私はそう思うのです。

だから感謝するし、私と同じような人やご家族を応援するし、辛いことがあって消えたくなっても、結局踏ん張ります。

 

もちろん病・障害者の人ならば、こんな医療受けたくなかったという人もおられるでしょうし、こんなに治療して生き続けることに意味はあるのかと悩む人もおられるでしょう。

だからこそ「どう死んでいくか」みたいな議論もされるわけで。

とはいえそれは患者本人やご家族が悩み、葛藤しながら決断することであり、そのご本人やご家族を見て第三者が「そこまでして生かすなんてかわいそう」だの「働きもできないくせに…」だのと言うことは断じて違うと思っています。

 

自然の摂理を唱えるとき、私は一つ思うのです。

どんな動物でも、与えられた命を全うしようとするとか。

ならば、ケアを受けながら生きている人、辛い治療を受けながら生きようとしている人もまた、各々がその命を全うしようとしているのは当然のことです。

それを社会への貢献度うんぬんと言われるのは、私は心外です。 

 

もう一度言わせてください。

「生産性」という言葉で簡単に他者の生きる価値を区別するのはおかしい。

 

私は生産性の有無ではなく、人類が選んだ「目の前の弱い人を救う」「生きる可能性を提供する」という考えに敬意を払いつつ、感謝し、その恩恵を受けたいと思っています。

 

ということで、私は世間さまから見たら生産性がないかもしれないけど、いろんな人の協力を受けつつも、最期までそれなりに楽しく生きていこうと思っている所存です。