今日もしおれ気味。

前向きも良いけど、私は今日も大体しおれ気味。

あの頃の風景①

11歳の入院中、いろんな人に出会いました。

私はそれまで家族や親戚、学校以外の人に接する機会がほとんどなく、小さな世界で生きていました。

 

以前お話ししたように、入院生活は異世界での暮らしでした。

 

siosio-pakira.hatenablog.com

 

痛いことや辛いことはたくさんあったけれど、私はその異世界での出会いや生活を通じて、人として成長した面もあると考えています。

よく「自分の人生に色がついた」という表現を聞くことがあります。色というのは少し違うかもしれないけれど、確かにあの期間のことは私にも鮮やかに刻まれましたし、私を私たるものにした原点はあそこだったと思っています。

 

そんな、あの頃あそこで出会った人たちについて、少しお話しできたらなと思います。

30年超前のこととはいえ、プライバシーもありますし、若干ぼんやりさせる部分もあります。それに、鮮やかに刻まれた記憶といえどあの頃の純粋さはもう私にはありませんし笑、大人になった目線も入るかと思います。

そんな私の思い出話にお付き合いいただければ幸いです。

 

※私が入院していた病棟には主に

 心臓血管外科、小児循環器科放射線科、心療内科 の人たちが入院していました。

 

心療内科のお姉さん

当時心療内科知名度は低く、私もこの入院で初めてそういう科があるのだと知りました。

今よりも心の病に対する見方ははるかに厳しく、「甘えてるだけだ」とか「気持ち(やる気)の問題」という意見が多かった時代に、心療内科を受診するという行為自体とてもハードルが高かったと思われます。

 

心療内科で入院している人のお見舞い客は家族以外ほとんどいません。

入院していることを秘密にしていたのか、それとも偏見で誰も寄り付かないのか、とにかく家族以外のお見舞いを見かけることはありませんでした(家族のお見舞いもほとんどない人も少なからずいたように思います)。

 

心療内科の先生は一人きりで、とても静かな先生でした。

患者さんたちの前で大きな声を出しているのを見かけたことはなく、今でいうところの傾聴を大切にされていたように思います。

患者さん一人ひとりの話を静かに聴いている、もしくはただ黙ってそばにいるだけの時もありました。

 

私は、(時期はそれぞれ違いますが)二人のお姉さんと知り合いました。

 

一人はうつむきがちで、いつも何かを考えているように見えるお姉さんでした。もしかしたら高校生だったかも。大人びていて、黒い長い髪をきちんと束ねていた人。

たまに笑うんだけど、すごく優しい笑顔だったのを覚えています。

 

もう一人は就職されていたので成人は過ぎていたはずです。

とても綺麗好きで、起床とともに自分のベッドを皺ひとつなく整え、夜までベッドに座ることのない人でした。

シャワーの後、シャンプーとコンディショナーのボトルを水滴一つ残らないようタオルでふきふき。私は割と几帳面なつもりでしたが、このお姉さんを前にしたらなんて雑だったのか…という感じ。

そして常に手を洗っていたので手が荒れていました。

洗わないと気持ちが落ち着かなかったのかもしれません。

 

いつも明るくにこにこしていました。

お仕事が幼稚園の先生か保母さん(保育士さん)だったと思うのですが、周りにいた付き添い入院中のお母さんたちが「汚れることも多い仕事だろうし、しんどいだろうなぁ」と言っていたのが印象に残っています。

彼女にとっては小さい人が汚すことと、自分が汚すことは別物だったのかなぁなんて、今だから思ったり。

 

二人とも真面目な人だったと記憶しています。

真面目で、まっすぐ。そんなイメージでした。

 

あの頃と今と…少しは時代が進んだのでしょうか。

心がしんどい人が、しんどいと言える時代になっているのだろうか…。

今どうしているかは知る由もないけれど、少しでも彼女たちが楽しいと感じることの多い日常であれば良いなと思います。

 

泣けない赤ちゃん

私が入院していた病棟には、小さい人や赤ちゃんも多くいました。

ヘリコプターで搬送されてくる子もいたので、全体的に重度の子たちがいたのかもしれません。

 

みんな体が小さくて、泣いているんだけど声にならない子(声を出すだけの体力がない)や、泣くと真っ赤とかじゃなくてチアノーゼで真っ黒になる子。

当時はパルスオキシメーター(酸素飽和度を計る機器)がメジャーな機器じゃなかったし…というか、いつからこんなマメにspo2をチェックするようになったのだろうと思うくらい、spo2を調べることはありませんでした。だから、たぶんわかっていなかっただけの話で赤ちゃんみんな、かなりspo2が低かったのではないでしょうか。

 

泣くことは赤ちゃんの仕事なんだろうけど、それができない赤ちゃんが多くて。

泣く姿が本当に苦しそうで、お母さんが席を外している間に泣いちゃうとどうしたら良いのかわからずおろおろしました。

 

手術をして泣き声に力が出るようになると「ああ、元気になったんだなぁ」と思いました。

ただ、やはり泣くことは負担になるからと基本的に「泣かせないで」と言われていたため、お母さんたちはあの手この手でなんとか泣かないようにしていたので、長時間大きな声で泣く赤ちゃんはいませんでした。

私には弟や妹がいなかったし、赤ちゃんがどう泣くのか知らなくて。

こういう泣き方が標準的なものだと思っていました。

 

その影響か、私はこの年になってもギャン泣きしている赤ちゃんを見かけるとびっくりします。長時間泣きっぱなしだと「え…肺とか負担大きいんじゃないの?親御さん止めなくて大丈夫?」と勝手に心配するし、「こんなに泣けるということは、めっちゃ体力ある赤ちゃんなんだな。なんと素晴らしい…」とこっそり感激するのです。

 

赤ちゃんや小さい人がほんのちょっとでも泣くと「うるさい」という人がいるそうですが、泣くと真っ黒になる赤ちゃんを見てごらん。

もう、しっかり泣いてるその姿が尊いと思えるから。

 

最期まで、一人きり

病棟には個室があり、入ったことはないけれどかなりの料金がかかる特別室のような部屋もあったようです。

そういう部屋に入る人はたいてい経済的に豊かな人でした。

だけど、家族関係が充実している人は少なかった気がします。

 

そういう年配の人が入ると、家政婦さん(今風に言えばヘルパーさんみたいな感じ?)を雇う人が多くて、その人たちが患者さんのお見舞いをし、洗濯をし、介助していました。

割と何でもしゃべってしまう家政婦さんもいて(個人情報うんぬんの時代じゃなかったから筒抜け)、会社の人の出入りはあるけど、ご家族がお見舞いに来ないのよ~なんて言われている人もいました。

 

亡くなっても一人きり。ご家族が来ないケースもあったようです。

 

そういう風に至ったのは、その人自身とご家族の問題です。

だからどうこう言うつもりもなかったけれど、子ども心に「死んじゃっても誰も来ないのは寂しいなぁ」と思ったものです。

 

放射線科のおばちゃんたち

放射線科」という科も、この時初めて知りました。

どんな病気の人たちなんだろうと思っていたけど、どうやら癌の人たちらしい、ということがわかりました。

おばちゃんたち(おじちゃんもいたけど、私が関わるのはおばちゃんばかりでした)は放射線治療のために入院している人ばかりだったと記憶しています。

たぶん、今みたいにピンポイントで照射するのが難しかったのか、癌の位置によっては肌の一部が浅黒くなっている人もいました。

 

ぱんぱんにお腹が脹れているおばちゃんもいて、「赤ちゃんがいるのかな…それにしてはうちのお母さんよりずっと年上だろうし」と思ったりもしました。

「腹水よ」と、こともなげに教えてくれたおばちゃん。

私、きっとジロジロ見てたよね。ごめんなさい。でも、おかげで腹水という状態を知ることができました。

あれ以来、お腹の大きい女の人がいても妊婦さんと決めつけるのはやめようと思いました。

 

リンパ浮腫になっていて、足がものすごく大きくなっているおばちゃんたちもいました。たいてい医療用の着圧ソックスを履いていたけれど、あまり効果がないのだと教えてもらいました。

 

照射はすごくしんどくてだるくなるようで、横になって静かに寝ている人が多かったです。

 

あの頃はおばちゃんと思っていた人たちは、当時の母よりは年上で、でもおそらく今の私と変わらない40代以降の人たちだったのだと思います。

お子さんがいる人が多かったのか、基本的におばちゃんたちは優しかった。 

 

異世界は自分の知らないことだらけ。

入院生活の日々はしんどかったけど、私はあそこで「私以外の人たちの存在」に気づけたように思います。

 

今小さい人たちが車いすの私や酸素ボンベをころがしてる私を凝視していたとしても、あの頃の自分を思い返してみればそうだろうなぁと思うのです。

 

「知らない」のだから興味がある。「知らない」から知りたい。

その気持ちは当たり前で、失って欲しくないなとも思います。

もちろん、なんじゃこりゃという目で見続けられるのは、正直気持ちの良いものではないけれど。

 

というわけで、そういう子たちと目が合うと、可能な限りにっこり笑うようにしています。君が見ている君とは違う感じのおばちゃんは怖くないぞ!と念じながら。

…ま、私は外出する際ほとんどマスクをつけているので、笑顔だとわかってるかは微妙ですけどね。

 

「見ちゃだめよ」という親御さんたちは昔よりはるかに減っています。

というよりも、(主に車いすの人だと思いますが)障害者や病者がたくさん社会に出ていくようになり、親御さん世代が「自分と違う人」を幼い頃から認知しているようになったのかもしれません。

 

社会はまだまだ「自分と違う人」「その他大勢と異なる人」を見る目が厳しくて、やるせないことが多いです。

今を生きている子たちが大人になる頃には、もっともっと「自分と違う人の存在」を受け入れる社会であれば良いのにな。

 

そんなことを思い出す、あの頃のことでした。

 

でもまだいろんな人たちと出会ってきましたので、来週も続きます。