今日もしおれ気味。

前向きも良いけど、私は今日も大体しおれ気味。

異世界と手術と私

「部屋とワイシャツと私」風タイトルにしましたが、果たして何人の方に通じるのやら…。

 

さて、11歳の夏を迎える頃。

私は「手術をしてお薬が飲めるようになろう」と言われて入院しました。

 

皆さんは私が「11歳の時の入院」に固執してるのはなぜだろう?と思っておられるかもしれません。それは私がこの年齢まで入院らしい入院をしたことがなかったからです。

 

私は、11歳まで手術をしたことのない子どもでした。

私の病名(単心室・単心房・無脾症候群ほかもろもろ合併症)からして、今では考えられないことでしょう。現在だと乳児期~就学前には手術を行っているはずです。

当時の主治医曰く「ぱきらちゃんは絶妙なバランスで合併している」という、素直に喜んでいいのかわからない評価をいただいており、そのおかげでなんとかかんとか11歳まで維持できていたようです。

とはいえたくさん歩くことはできず車いすを使っていましたし、チアノーゼもそこそこきつかったので良い状態とは言えなかったと思います。

 

そこは異世界だった

私は夏休みになって入院しました。

髪の毛が洗えない日もたくさんあるかもしれないとおかっぱ頭にしました。

先生方は夏休みの間に決着をつけるつもりだったのでしょう。

 

私はこれまで、小児科で入院したことがありません。とても小さい時はカテ入院で小児科に入ったこともあるのかもしれませんが…いずれにせよ、記憶にありません。

 

入院した病棟にはザックリと、

心臓血管外科小児循環器科放射線心療内科の患者さんがいました。

私は一応心臓血管外科の患者として入院しましたが、小児循環器内科の先生もいつも診察に来られていました。

 

病室は大人の人と一緒の時もあれば、病棟の中ある「子ども部屋」と呼ばれる子どもばかりが入院している一室で過ごした時もありました。

大人の病室も子どもの病室も今のようにゆったり4人部屋ではなく、基本的に5人部屋でした。満床でどうしようもない時は一時的に6人部屋にもなりました。ぎゅうぎゅう。

(もちろん個室はありましたが、よほどの状況でなければ選びません)

患者一人当たりに与えられた空間はとても狭かったし、3人・2人という分かれかたをしていたので、3人の真ん中のポジションになると狭いわ光が当たらず暗いわで「ハズレ」な感じがいっぱいでした。

 

トイレは病棟の真ん中あたりに共有トイレがあるのみ。集中する時間帯は譲り合い。考えてみれば利尿剤を飲んでいる人も多かったでしょうに、よくあのトイレの数でなんとかなっていたなという印象です。

 

そして、これは病院によって違うのかもしれませんが、その頃は大人の部屋・子どもの部屋関係なく起床とともに仕切られたカーテンは開け放たれました。

ノーカーテン。

みんな廊下から丸見え。

消灯時間になるとカーテンをひいておやすみなさい。

これで慣れていたので、大人になってからカーテンを閉めたままの病室に入院した時は軽い違和感がありました。

でもよく考えればそれが正解ですよね。

ノーカーテンって…。プライバシーとは…笑

 

 このノーカーテン生活によって、否が応でも他の入院患者さんとお話ししなければなりませんでした。どんなにしゃべらない人でも「おはようございます」「おやすみなさい」の挨拶だけはします。

それまでせいぜい学校で同級生と話すくらいだけだった私。ノーカーテン生活はいろんな人と話をせねばならず「会話する力」が鍛えられました。

 

朝から看護師さん(当時は看護婦さんと呼ばれていました)が来て検温などがあり、手術前日までは検査検査で。常にいろんな音が聞こえて、いろんな人の声が聞こえて。

そこは本当に…異世界でした。

非日常というよりは、全く違う世界に放り込まれたような感覚でした。

けれど私は最初こそ戸惑ったものの、すぐに馴染んでいきました。

むしろ学校ではいろいろと窮屈な気持ちになっていたのか、異世界で気楽に過ごせました。

なんと言いますか…しんどい自分が否定されない場所だし、他にもしんどい子や人がたくさんいて、しんどいことが特別ではないという安心感があったのかもしれません。

いえ、もちろん怖いこと・痛いことは嫌いでしたけどね。

 

手術はゴールじゃなかった

さて、手術はどうなったかと言いますと…。

私はグレン術を受けて、確かに夏休み中に退院することができました。

ですが調子は良くなく、ほどなくして再入院。

「飲めるように」なった薬の多くは私に副作用しか与えず、かなりの種類の薬を飲みましたが、副作用が出ては一からやり直しの繰り返しとなりました。

 

私は手術によって体質が変わってしまったのかもしれません。

術後ICUから一般病棟に戻って最初の抗生剤の点滴でアナフィラキシーショックを起こし、ICUへ戻るどころか危うく…というところでした。

以来、抗生剤のみならずいろんな薬に過敏に反応するようになりました。これが後々私を悩ます種となります。

 

脱線しました。

私は最終的に再手術となりましたが、今のように精巧な心臓MRIやCTなどがあるわけでもなく、詳しい状況がわからないまま時間だけが過ぎ、かといってカテーテル検査をするには負担が大き過ぎて。

春になるまでグズグズと入退院を繰り返すこととなりました。 

11歳は、異世界での生活が主体となるのでした。

そして母は、そんな私に付き添い「付き添い入院」することがほとんどでした。

私にとって「11歳」は大きなターニングポイントとなりました。

 

手術した直後からメキメキと状態が良くなる子はたくさんいます。

ですが残念ながら、私は違っていました。

飲めるようになったはずの薬たちもしっくり来ず、手術以降次から次へとしんどさが出現しました。

年末に退院し年始に再入院したら、事情を知らない看護師さんに「おかえり!」と言われ「外泊じゃなく退院したんだよ〜」と説明しなければならないほど病院とお友だちになっていました。

 

振り返ってみれば、手術はあくまでも通過点に過ぎないのだと感じています。

 

保護者の中には「手術をすれば…!」と思っておられる方も多いでしょう。

やる気を削ぐつもりはありませんが、あまり手術を過信しないほうが良いとお伝えしたいです。手術は万能ではない。

手術は次のステップへ進むための通過点に過ぎません。

そのくらいの気持ちでいる方が、気持ちが楽かもしれません。 

 

 

おかっぱで入院した私は美容院へ行くゆとりもないままで、春を迎える頃にはすっかりロングヘアになっていました。

 

何かで見ましたが、記憶は自分の都合の良いように変化するそうです。もしかしたら私の入院期間中の記憶は、美化されているかもしれません。

それでもあの頃の入院期間は無駄ではなかったと思っています。

11歳の頃の自分と、兄と両親と。みんな最高に頑張った期間だったと思っています。

あ、もちろん先生たちも頑張ってくださいましたよ!笑