今日もしおれ気味。

前向きも良いけど、私は今日も大体しおれ気味。

産めない側の風景

子どもを持たない、持てないご夫婦というのは世の中にたくさんおられます。

私たち夫婦もそんな一組。

 

先天性心疾患であっても妊娠出産・育児をされている方は多く、そういう方の日々の積み重ねを見て、

「いずれ私も!」と思う女性や

「うちの娘も!」と思って、勇気づけられる人は多いでしょう。

 

それは本当にそうだと思うんです。

 

でも一方で、やはり妊娠出産を諦めざるを得ない人も多い。

その一人ひとりの事情は簡単に話せることではないし、誰一人同じというものはありません。

それでも、「産めない側の話」をしてみたいと思いました。

今日はそんな話です。

 

ちなみに、私は自ら「産まない」選択をしたご夫婦に関して嫌な気持ちになったり、反感を覚えることはありません。

そのご夫妻が考え抜いて出した結論を誰かが批判するなんてできないし、その答えを導くまでやはり何らかの葛藤があったと思うのです。

ただ私は子どもを「産めない」視点でものごとを書きます。

ですから、「産まない」選択をした人たちからすれば違和感のある文章になるかと思います。

その部分を考慮いただきながら読んでくださると幸いです。

 

 

私とあなたは違うけど

 まず、妊娠出産の話をする前に。

私のザックリ病名は単心室・単心房・無脾症候群です。

その他もろもろ合併症があり、カテをするたび新発見があるまだまだ魅惑の40代。

病名を載せるかどうか逡巡しましたが、私は前々から病名を書いていましたので、書かない方が不自然かなと思いました。

また、産めない状態とはどういう病名なのだろうかと気になる人もおられるだろうと考えました。ですから、病名を書いておきます。

けれど、ご存じのように先天性心疾患は同じ病名でもかなり状態が違います。

だから、仮に同じ病名でもがっかりしないで。

たとえ同じ病名でも、あなたとは違う。

あなたの娘さんとは違う。

私が産めないからといって悲観しないでください。

私が生きている時代、結婚した年齢、取り巻く環境、医学的見地、そして合併の具合等など、私とあなたとは違う。私とあなたの娘さんとは違う。

 

でも、一方で思うのです。

「産めないかもしれない可能性」を理解しておくことも大事ではないかと。

当たり前のように子を授かり、育てることができると信じている状態で、産めないと知ることはとても辛い。

だから「もしかしたら産めないかもしれない」と頭の片隅にあることもまた、生きて行く上では大切なのではないかと思っています。

 

重ねて言います。

私とあなたは違う。

私とあなたの娘さんは違う。

だけど「産めないかもしれない可能性」があるかもしれないことを、ほんのり知っていて欲しいと思っています。

 

妊娠出産は無理だろうな、と

私は母から「あなたは妊娠出産が無理なのよ」ということを言われたことは一度もありません。

おそらく、母の中で妊娠出産どころじゃなかったのだと思います。

私は中学生の頃が唯一安定していた時期で、それ以降はすぐに生死にかかわる状態ではなくとも、常に綱渡りな体調でした。

なんとかこのまま踏みとどまって!

そんな気持ちが強かったかもしれません。

 

 

私が漠然と「あ、私は妊娠出産ができないんだな」と思ったのは17,8歳の頃。

明確な決め手があったわけではないけれど、この頃長い期間入院することになり、自分の体力のなさや、自分の体調を安定させるので精一杯の私が「子をなす」ことができるとは思えなかったのです。

 

入院中少し面白いなと思ったことがありました。

 

当時私は生理が不安定で、無排卵月経と診断されていました。

もはや私の中で無排卵だろうと排卵があろうとどうでもいいことでした。

それよりも早く安定したサイクルで出血して。でないとしんどい。

そう思っていました。

 

そんなある日、一人の看護師さんが私のベッドサイドに座り、静かに語り掛けてくれました。

「ぱきらちゃん、無排卵でも大丈夫よ。今は排卵誘発剤もあるから、ぱきらちゃんが赤ちゃんを持ちたいと思ったときに対処することはできるからね」

 

「…はい」(はい?)

 

(もしやこの看護師さんは私が妊娠出産できると思っているのかな。思ってるんだろうな。…できそうに見えるのかな)

 

良かれと思って、励まそうと思って言ってくれてるんだな。

そう思って、ただそうだね、ありがとうとお礼を言いました。

 

これはしかし、私の場合は自分が妊娠出産が不可能だと(ほんのりだとは言え)把握していたし、そのことについて特に思い悩んでいたわけでもないからこれで終わりです。

でも、私がスーパー繊細JKだったら少々ややこしかったのでは、と思っています。

 

①ひどい、私は妊娠出産が無理なのにそんなこと言って…。

となるパターンと、

②看護師さんがそう言ってくれるんだもの、じゃあ私も妊娠が可能なんだわ!

と思ってしまうパターンがあり得る。

 

どっちに転んでも、ちと厄介。

 

先天性心疾患の女性患者に対するそうした問題は、中高生の間から医療者の間で共通の認識を持っていて対処して欲しいなと思います。

 

私の場合の、明確な妊娠できない理由

さて、私は結婚前に主治医と夫と私で三者面談をしました。

当時私は30代前半。

私の体のこと、予後について、そして妊娠出産に関する説明を受けました。

 

当時の主治医は、私が中学生になる頃からお世話になっているお父さんみたいな人でした。結婚することをとても喜んでくれました(そして引っ越しに伴う転院についても一緒にいろいろと考えてくださいました)。

 

先生は私が妊娠出産が無理である理由として、大きく次の2点を挙げました。

 

①心臓への負担が大きすぎること

私の普段の(この頃の)BNP値は200~300台。具合が悪いと400程度。

立派な(?)慢性心不全といえるでしょう。

 

「(いわゆる)健康な女性でもね、妊娠すると心臓に負担がかかってBNP値がぐんと上がる人がいるんだ。100台を超えてくる場合もある」

先生はそうおっしゃいました。

 

なるほど、じゃあ私が妊娠したら4桁超えてくるな。

心臓への負担は想像もできない。

 

もしかしたら妊娠したら尋常じゃないくらい苦しくなるのかも。

そんな風に思いました。

 

「もし妊娠したらすぐわかると思われますか?」

「うん、たぶん酸素が急速に奪われ始めるから、妊娠したらすぐ変化に気づくと思う」

とのこと。

 

…妊娠したらすぐわかる…私は「スピーシーズ」の宇宙人か( ゚д゚)

 

こんなときに思い出されたのは、昔の映画のタイトルでした。 

 簡単に内容を説明すると、宇宙から送られてきた信号をもとに人間がDNA操作で誕生させた宇宙人の少女が成長、地球上に子孫を残すために自分の子をなそうと条件に合った男性を見つけてはナンパ、ベッドを共にしようとする…SF映画の気持ちで見ていましたが、もしやセクシー系?の映画。1995年公開時にはとても綺麗な映像で話題になったようです。続編も多数あるようですが、これしか見てません。

 

映画の中で、宇宙人が自分のお眼鏡にかなう人を見つけてセックス、終わった直後に「…私、妊娠したわ!」とわかってしまう、そんなシーンがあるのです。 

 

それが浮かんだ私。

自分でもアホだなと思いつつ、イメージ的にはそれくらい早く妊娠を自覚するんだろうなぁと思ったのです。

 

…私今、割と重たい話を書いてはずなんですけど、なんか道を誤った気がする…。

 

えいっ、軌道修正。

 

 

②サチュレーションが低い

 もう一つ言われたこと。

 

「ぱきらさんはもともとspo2(酸素飽和度)が低い。その状態で妊娠してもね、自分が苦しいだけではなく、酸素がお腹の子に行き届かないんだ」

「つまり?」

「子どもが育たない(不育)」

 

これは、なかなか効きました。

そうか…私はお腹の中に子を授かっても、人間にしてあげられないんだな。

そうかそうか。

 

 

「あと、もし仮に妊娠して処置(堕胎)することになったとしても、簡単にはできないと思う。君にとってリスクの高いもので、すごく大変なことになる」

 

「正直、絶対に妊娠して欲しくない」

 

これはもう、納得するしないの問題ではありませんでした。

私はまかり間違っても妊娠してはいけないのだ。

子を授かってはいけないのだ。

私に選択権はない。

 

 

もともと妊娠出産は無理だろうと思っていましたし、夫には結婚前から「子どもは持てない」ということを伝えていました。夫もすんなりそれを受け入れてくれていました。

「うん、俺とぱきらちゃん二人で生きて行こうよ」

そう言ってくれていたので、先生の説明に対して驚くことはありませんでした。

でも、やはり先生の「絶対に妊娠して欲しくない」は思うところがあったようです。

 

他の、先天性心疾患で妊娠出産ができない人に対しての説明がどのようなものかはわかりません。

それでも、私はここまではっきり説明してもらえて良かったと感じました。

だって、お腹の中で子どもが酸欠で育たないんですよ。もしかしたら臓器の一つも作ってあげられないのかもしれない。

酸欠って苦しい。そんな苦しい思いさせたくない。

 

私の場合、「産めない」ではなく「妊娠できない」…いや、「妊娠してはならない」が正しいのです。

 

受容には時間がかかるのではないか

私は、自分が妊娠できないことをすんなり受容できていると思っていました。

でも結婚し、夫と暮らしているときにふと

「ああ、この人との間に子どもがいたらどんな感じだったろうなぁ。赤ちゃん欲しかったなぁ」

と思って、一度だけ泣きました。

 

そうか、子どもが持てないって、そこそこダメージ食らうことなんだ。

いや、もちろんすんなり受容できる人もおられるだろう。

でも私には、存外大きな衝撃になっていた。

そう感じました。

 

これはなんというか、あれだ。

結婚→妊娠出産→子育て を頭に描いている人ができないとわかったら、とんでもなく辛いんじゃないのかしら。

 

そして私は30代になってからの結婚。

もしこれが20代だったら?

もっともっと、子を持ちたいと思うんじゃないか?

 

 

果たして、結婚してから妊娠が無理だとわかることの方が辛いのか、それとも私のように最初から分かっている方が辛いのか。

結局それは受け止め方次第なんでしょうけど、少なくとも事前にわかっている方が「心づもり」はできるような気がします。

私ができていたのかと問われると難しいところですが、それでも「夫と二人の生活」を基準にものごとを見ることができていたと思います。

 

私は20代前半での入院中、一人の女性と出会いました。

とてもチャーミングで、かわいらしい人でした。

でも息切れが激しく、チアノーゼもきつくて私よりもspo2が低いことは見て取れました。

その彼女が「今度結婚するねん」と教えてくれました。

そうか、良かったなぁ。そう思っていましたが、それからしばらく後になってとても落ち込んでいたことがありました。

「私、妊娠できへんねんて。彼、めっちゃ子ども好きな人やねん。申し訳ないわ」

そう言っているのを聞いて、私は本当に驚きました。

 

まさか、妊娠できると思っていたなんて。

 

そうなんです。

彼女は妊娠できると思っていた。

 

こんなに傷つくことになって…こんなにも悲しい気持ちにさせて。

どうして。どうして、誰も彼女に言わなかったの。

私は悔しかった。

そりゃ知っていたら知っていたで彼との結婚を躊躇したかもしれない。それでも、彼と話をすることだってできたはずだ。

 

その後彼女は結婚して、短い間だったけれどご夫婦二人の生活を楽しんで、旅立ちました。

 

医療は日々進歩しているので、「現状」妊娠が難しい人であっても、将来的には妊娠できるようになるかもしれません。

だから早い段階から妊娠出産について考える必要も、話す必要もないという指摘があるかもしれません。

 

それでも私は、なるべく早い段階から産める可能性と産めない可能性を、話をして欲しいと思うのです。

産めるとしたら、出産までどういう過程が必要なのか(観察入院が必要になるとか、帝王切開が必須であるとか)。たとえ産める場合でも、ハイリスク妊婦となることに違いはなく、「妊娠できるよ!」の一言では片づけられません。

そして産めないのなら、なぜ、どのくらいのリスクがあって産めないのか。

 

自分の経験や、いろんな知り合いの場合を見ていても、受容はそう容易いものではないと思うのです。

 

 事前に知ることができるのなら、その方が良いのではないか…私はそう考えています。

 

先天性心疾患患者は長生きできるようになりました。

自分の将来を、自分の子どもについてを早くから考えて、何が悪い。

 

夫婦二人で生きること

ベランダで洗濯物を干していると、子どもたちが遊んでいる声や、その保護者と思われるお母さんたちの話声が聞こえてくることがあります。

子を宿し、育てることはとても大変なんだろうと思います。お母さん同士の関係もきっと難しいことがあるんだと思います。

だから無責任に聞こえるかもしれないけれど。

ああ、ああいうママ同士のおしゃべりしてみたかったなぁ。

夫との子を、ぎゅうって抱きしめてみたかったなぁ。

そう、思うときがありました。

未練たらたらです笑

 

「子どもなんて育てるのが大変だし、いない方が気楽で良いじゃない」

と言われることがあります。

うむ…確かに気楽かもしれないけど… それを、子どものいる人から言われると若干モヤァッとします。

気楽、か。

悪気はない。むしろ夫婦二人の生活を肯定しているような気持ちで言っているのでしょう。

けれど夫と二人の生活だとしても、「気の合う人と面白おかしく同居している」というのとは違います。

私たちも家族になったのです。

それ相応の波はあります。

 

 

 

子を持ち、育んでおられるご夫婦は尊い

心からそう思います。私に自分のものとは違う命を背負う覚悟はありません。

そして子どもがいる生活は楽しそうです。

けれど夫婦二人の生活が劣っていることなんてなくて、夫婦二人も結構楽しいです。

 

子どもが持てない、諦めなければいけないと言われると、とてもマイナスなイメージになります。実際、マイナスかもしれません。

でも、私は今毎日が楽しいです。

…いや、腹立つときもありますけど、でも全体的に楽しいのでそれで良しとしています。

 

子どもを産めない人が、親戚や周囲の人から責められるのはなぜなのか。

子どもを産めないでいるその人こそが辛いのに、なぜ周囲に「申し訳ない」と思わなければいけないのか。子どもがいないことは罪なのか。生産性がないなどと否定されなければならないのか。

子どもが持てない事実を受容できずに傷ついている上に、更に傷つけられている人を見ると悲しい気持ちになります。

 

 

☆ 

私はまだまだ、隣の芝生は青く見えます。

子を持つ先天性心疾患の女性を見ると、すごいな、そして産んでからまた始まるんだなぁ、子育てってすごい…と思ったり、自身の体調も気をつけてと願ったり。

それと同時に、それはもう、羨ましい気持ちが溢れます。びしょびしょです。

 

私もあちら側になりたかった。

それが偽らざる本音です。

 

でも仕方ない。

夫と二人で、子どもがいない側で日々を積み重ねていこうと思っています。

その日々が楽しければもっと素敵。

そして、たまに出会うお子さんには「ちびっこかわいいぞ」光線を送り、親御さんには「ほんと尊敬してます」ビームを放っておきます。

 

そんな、産めない側の話でした。

 

 

↓生産性について触れている記事もありますので、よろしければこちらもご覧ください。

  

siosio-pakira.hatenablog.com

 

世界は広がり…時々、飲み込まれる。後編

前回のつづきです。

前回は「インターネットの誕生により、私のコミュニケーションの幅が広がった」というお話しでした。

 

siosio-pakira.hatenablog.com

 

 

情報獲得のための通信機器

さて、インターネットの登場まで、人々の情報源となる通信機器はラジオとテレビだったと考えられる。

 

私はラジオが好きで、今でも家事をしながらよく聴いている。

FMの音楽中心も楽しいけれど、AMのおしゃべり中心が特に好き。

ラジオのパーソナリティはラジオの向こうにいるリスナーに語りかける。

だから、なんだか私にも話しかけてくれているような気持ちになるのだ。

 

夫が仕事に出てしまえば一人きりなので、誰かの声が聞こえてくると安心するし、世の中には私以外にもいろんな職業や状態のリスナーさんがいるのだなと、不思議に寂しさがなくなる。

ニュースも案外とテレビより早い場合がある。

速報という形ですぐに伝えられ、かといって長々とその話を続けることはない。私はラジオのこの無駄のなさも好きだ。

 

とはいえ、ラジオよりもテレビの方が人々の中に広く浸透しているだろう。

そして、多くの人が情報獲得のためにテレビを見ている。

 

テレビは手軽に多くのニュースを私たちに与えている。

 

ちなみに私が子どもの頃に衝撃を受けたニュース映像は、日航機墜落事故で助かったお子さん(当時)がヘリで吊り上げられて救助された様子だった。

ただ、何度も何度も放送され続け、今でも節目には映像を使われ、当事者はどのように感じておられたのだろうかと思うことがある。

 

テレビは視覚で訴える。

だからだんだんと刺激的なものになってきたし、各局が競い合って同じテーマをより掘り下げて報道していくようになった(結果的に同じ話を延々としているように感じるし、不安を煽っているのでは?と思うときもある)。

 

けれどテレビは一方通行だった。

テレビ局から私たち視聴者へ。

それを見てご近所さんや友だちと噂話をすることはあっても、その範囲は限定的だったと思われる。

 

 

そこへ登場したのがインターネットだ。

最初は通信速度も速くはなかったので、今のようにサクサクホームページを見るということはできなかった。

それでも、ネットではラジオやテレビで報じられることとは違う角度のニュースを見ることができたし、その「サイトを見た者だけが知っている感」がそそられた部分でもあると思う。

国内のことだけではなく、海外のニュースも身近に見ることができた。

目の前にあるパソコンという箱は文字通り世界を広げた。


一時期、テレビCMで「続きはWEBで!」という手法が流行った。

それほどまでにインターネットは急速に人々に浸透していったと言える。

また、インターネット上にホームページを設置している方が、テレビCMの短い秒数では伝えきれないことを明確に発信できる部分もあったのだろう。

企業は、インターネットの存在を無視できなくなっていた。

 

そして、インターネットは「調べる」ための強い味方となった。

何か疑問に思うこと、例えば〇〇病って何だろう?というようなこと。

それらを検索サイトに打ち込めば(その真偽は置いといて)すぐに答えが見つかる。

 

また、私は通信制の大学に行ったが、履修科目によっては専門書を必要とする場合があった。

そんなときは図書館のホームページで蔵書検索、その専門書があるかどうかを事前に確認した。そうすれば図書館でうろうろする必要がなくなり、一直線でその専門書のある場所へ行くことができて無駄な体力を使わず済んだ。

今では図書館のホームページ上で蔵書予約ができるようになっているところがほとんどだろう。さすがにその本を夫に取りに行ってもらう必要はあるが、これもインターネットの恩恵だなとしみじみ感じている。

 

こうしたことは、外出しにくい(できない)人が知識や学びを深める上で大いに役立ったと思うし、いわゆる健康な人にとっても便利だっただろう。

 

溢れ出る情報、責任の所在

そのうちに、インターネットで自分のホームページやブログを開設する人が増えた。

写真が趣味の人は写真を掲載したし、自分の考えていることや経験談を書く人も多かった。

 

これまで情報を「受け取る」側だった人たちが、情報を「発信する」側にもなれたのだ。

 

そこからの目覚ましい発展は言葉にするまでもない。

そして私たちは膨大な情報をいち早く手にすることができるようになった。

 

私は数年前に夫が留守中に体調を崩し、救急車を呼んだことがある。

時間が19時頃ということもあり、お子さんも含め野次馬がたくさんいて、少々恥ずかしかった。

そのとき、少し離れた位置でずっとスマホを触っている人がいた。

直感的に嫌だなと思った。

想像でしかないけれど、動画を撮っていたのではないかと思う。

「ああ、Twitterにあげるのかな。それならそれで、せめて私の顔にモザイクを…」としんどさの中思った。

 

今、何事かあるとみんな動画を撮る。

衝撃的なものだとそれが拡散され、更にその動画はテレビで使われる。

動画によっては災害のメカニズム解明に繋がったり、記録という意味もあるだろうからそれ自体は否定しない。

 

けれど、動画にもTPOがあってしかるべきではないかと思っている。

 

電車でケンカが起これば動画を撮る(まず駅員さんに言おうよ)。

急に倒れた人を撮る(先に助けに行ってあげて)。

いじめ動画や商品へのいたずら動画…果ては自死しようとしている人の動画を撮り、衝撃映像wwwとか言ってTwitterにあげる。こんなものは論外だ。

 

救急車で運ばれる私を撮るのはセーフかアウトか。

私の中でははっきりとアウトだ。

 

でもこれらは「知る権利」なのだと言う人がいる。

だから動画を撮影、みんなに教えてあげているのだという人がいる。

 

待て待て、その前に撮られている側の個人情報や人権はどない考えとんねん。

そしてお前はその動画を拡散して責任を負えるのか。

 

 

テレビでもたまにとんでもない間違いを報じ、視聴者や放送倫理・番組向上機構BPO) から指摘を受け謝罪することがある。

けれどテレビ番組にはそれぞれ製作スタッフがいて、スポンサーがついている。

最終的な責任はテレビ局にあり、責任の所在が明確だ。だから謝罪する。

 

対して、ネット上の情報に関してはその責任の所在がとても曖昧だ。

「目立ちたかった」「こんなに拡散されるとは思わなかった」等々の言い訳を多く聞くが、その文章や動画を公開する前に、責任について考えないのかなと思う。

 

私は、みんなの「匿名」であることで何でもできちゃう感が強いのがとても怖い。

 

また、インターネット上では情報が山盛り提供されているが、その中のどれが正しい情報なのか、どれほど「真実」が潜んでいるのかは受け手によって大きく異なるのも現代ならではだと思っている。

(例えば、△△という食品は免疫力を上げる、というニュースを丸ごと信用すればその人にとってはそれが真実であり、信用しなければフェイクニュース、あるいはデマとなる。ここに、科学的根拠等や裏付けはなんだろう?と考える視点が欲しいなと思う)

 

 

今回の新型肺炎のことにしても、間違った情報は多いし、デマもある。

多くの情報が拡散され、情報一つひとつに動揺する。

 

もう、何がなんやら。

溢れる情報の渦に飲み込まれると言っても言い過ぎではない気がする。

 

どんぶらこ、と流されて

それでも、私はこの時代の流れに乗れたことをとても感謝している。

 

同世代が社会に飛び出し始めた頃、私はまだまだ家の中でしか生きていなかった。
家族と常に一緒にいるというのは、なかなかしんどいものだ(家族側もしんどかったと思う)。

そんなとき、インターネットを通じて他者と関われ、いろんな情報を得られたことで私は一人ぼっちではなくなった。

 

一方で今、インターネットやSNSは転換期を迎えているのかなとも思っている。

 

今や情報の発信者と受信者の線引きはほとんどなくなっている

今、自分が知ったその情報を、他の人に早く伝えたい。伝えなければ。

そうしてあっという間に拡散。

気がつけば情報を受け取った私が、情報を発信した人になっている。

コミュニケーションと情報収集がないまぜになった今だからこそなんだろうなと思う。

 

とはいえ、そのないまぜ感が力を発揮することは多い。

例えば有名人や芸能人が、自身の病をネット上で公表、それが拡散されて世の中に「そういう病があったんだ」と知らしめることは多い。

そしてその病は社会に認知される。

本人が発信することで、これまでにない「生身」の患者の声が伝わるわけで、だからこそ人の心に響く。

 

ただ、その有名人や芸能人が治療後に復帰し社会で再び活躍し始めると、「この人はまた仕事ができているのに、なぜあなたは同じ病気なのにできないんだ」てなことを言うとんちんかんな人が結構いて、その点はいかんともしがたい。

「たとえ同じ病名でも、個人により状態は異なる」という捉え方をして欲しい。

 

 

今は情報過多気味だ。

そして、人と関わり過ぎている気がする。

人と簡単に関われること自体は素晴らしい。それは私自身よく理解している。

でも人の感情に触れすぎると疲れる。

みんなの不安や怒り、苛立ち…触れるとヒリヒリする。

悲しんいる人がいると、その悲しみに引きずれらそうになる。

 

ならばTwitterをやめて、インターネットに接続するのやめれば良いじゃんと言われそう。

だけど私はやめないし、やめられない。

 

確かに疲れるときがあるのは事実だ。

でも、例えばTwitterで私が何かをつぶやいたら「いいね」してくれる人がいる。

それは必ずしも共感のいいねではないかもしれないけど、いいねを通じて私は背中をさすってもらったり、押してもらえている。

そして、私の知らないことや同じような想いを、他者のつぶやきから知ることができる。そういう視点があったのか!と思うことや、あなたも私と同じなのね…そんな風に感じること。

私は一人じゃない。

孤独じゃないことは、本当にありがたい。

 

今回の新型肺炎の騒動の中でも優しい気持ちの人はいるし、支えあいも生まれている。

インターネットを通してお子さんの勉強支援・時間を有効利用できるような支援をしようとしている人や企業は多い。

(とはいえ、民間企業やボランティアさんたちの好意に甘んじている部分が多いのはいかがなものかとも思っている。でもこれはまた別の話なので置いておく) 

 

 

不安は不安を招くけれど、同じように喜びは喜びを招くと思っている。

 

宗教や民族間、文化による考え方の違いをすべて同じにすることなんて難しいし、同じにしようとすることは多様性を否定する。

だからみんなが同じ方向を向くことなんてない。

でも、一個人が小さな声を発することができ、それに耳を傾けられることができるなんて、しかもそれが地球規模(言語の問題はさておいて)だなんて、とっても素敵なことだ。

それこそが「他者を知る」ことだと思う。

それこそが「情報を手にする」ことで、世界が広がるということなんだと思っている。

 

ネット社会では「人との差」をまざまざと見せつけられることが多い。

でも、同じくらい「人と大差ない」ことを感じさせてくれるのだと私は信じているし、信じたい。

 

今が転換期だとして、この先インターネットと共にある社会はどのようになって行くのだろう。

答えはわからない。だって誰も見たことがないのだもの。

でも私はインターネットに出会えて本当に良かった。

 

いつの世も「だから若いヤツらは…」と言われてしまうが、生まれたときからネットが当然のようにある世代の子たちは、どんな未来を創るのだろう。

長生きして、この先を見てみたい。

そして意見を求められる機会があるならば、

「インターネット、なんじゃかんじゃ言いつつ最高やで!」

…と、大きな声で伝えたい。

 

インターネットはもともと軍事利用を目的として開発されたと言われている。

そういう側面は今後もあるだろうけど、 できうるならば、このインターネットが今のような形で活用され続け、みんなが少しずつ穏やかに生きて行ける手段の一つになっていれば良いなと思う。

 

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特に答えのない記事です。 

前後編にわたる長文にお付き合いいただき、ありがとうございました。

 

世界は広がり…時々、飲み込まれる。前編

インターネットの普及は、家から出ることが難しい病児者や障害児者にとって社会参加の可能性を広げる、大きな転換期だったのではないかと思っています。

 

私たちの周りにある通信機器は、固定電話の時代から、FAX(ファックス)、ポケットベル、パソコンを使ったインターネット通信、PHS、携帯電話、スマートフォンまで。

驚くべき速さで進化してきました。

と同時に、膨大な情報が目の前に提供されるようになりました。

今回は、私の昔話と最近感じていることにお付き合いいただければと思います。

 

なお、この記事ではインターネットを使っていかに病・障害者が働いているか、といったことには触れていません。

私自身が働いたことがなく「見聞きしているレベル」であり、率直にわからない・知らないからです。もしそういう話を期待してくださっているならば、全くの期待外れに終わりますので、あしからず…。

 

 

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コミュニケーションツールとしての通信機器

今は昔…のような、通信機器

私は今40代前半。

子どもの頃は固定電話が間接的に人と関わるコミュニケーションツールの主流であった(手紙もあるが通信機器を介さないので今回は除外する)。

友人知人と電話して楽しくおしゃべり…は可能だけれど、(リアルタイムでの交流なのだから)同じタイミングで電話に向かう必要があり、また通話料も安くはないのでおいそれと利用できるものではなかった。

 

小学生の途中から、ポケットベルが登場する。

初期は音が鳴り、何らかの数字が表示されるだけ。「8451」は「早よ来い」というように、暴走族の「夜露四苦(よろしく)」並みの語呂合わせだった。

月々のレンタル(使用)料が安価になったことと、数字の並びで文字(カタカナやアルファベット)に変換できるようになると、このポケベルは学生や若い人の間で爆発的な人気が出る。

学校で直接会わずとも、相手の自宅に電話しなくとも、連絡が取れる。ちょっとした文字を送ることができる。これは画期的だったと思う。

 

と言ってもポケベル最盛期には私は高校を辞めていたし、家にいることが多かったため個人的にポケベルを持っておらず、利用した記憶がない。

 

 

それよりもむしろ、私にとって大きなコミュニケーションツールとなったのはFAX(ファックス、ファクシミリ)だった。

主に患者会を通じて知り合った人たちとFAXのやり取りをした。

電話だとお互いの体調があり電話に向かえるか心配だし、かつ遠距離だと電話代がかかる。ということで、大変重宝した。

 

親しくなった人の誕生日には、「おめでとう」とお祝いの言葉を書いたFAXを送りあったものである。

亡くなった人とのやり取りもあったので大切に保管していたけれど、当時は感熱紙を使っていたためにほとんどが真っ白になってしまい処分した。

 

待ってました!インターネットさま

ここからの時系列は定かでない。私が思いつくままに書いている。

 

1995年、Windows95というパソコンのOS(オペレーションシステム)が発売された。私にはその価値がわからなかったけれど、世の中はちょっとしたお祭り騒ぎだった。

それに伴い家庭でもパソコンが導入され始める。

そしてインターネットも個人で利用し始める人が増えだした。

最初の頃はダイヤルアップ接続だったと思う。それがADSLとなり、光ファイバーとなり…通信速度が増して行った。

 

私の場合は父がパソコンを使っており、そのパソコンを譲り受けたタイミングでインターネット接続を始めた。といってもパソコンはとても高価だったし、月々の使用料も気になるので(最初の頃は定額制ではなかった)おっかなびっくり、恐るおそる始めた。

 

インターネット環境が整うとメールを始めた。

メール交換するには相手も当然メールアドレスを有していなければならないのだが、患者会の人たちは皆かなり早い段階でインターネットを開始していたし、メールアドレスを取得していた。

 

「私のメールアドレスです。○○.--ne.jp」

とFAXで相手に知らせ、その相手からメールが届くか確認するときのドキドキわくわく感は、小さな頃からメールよりもLINEが主流となっている人たちには理解しにくいかもしれない。

 

とにかく、楽しかった。

 

毎日毎日、メールで会話した。

FAXだと書く作業が面倒だし、送信した内容をご家族に見られることもある。

だが、メールは一対一なのだ。

会えないのに、一対一のコミュニケーションが取れる。

そりゃ声は聞けないけれど、互いの体調の良いタイミングでメールを読み、返事を書けば良いので便利だった。

 

そうこうしているうちに携帯電話が普及し始め、携帯からもメールができるようになった。

最初の頃はショートメールが送れるだけだったように思う。

徐々に文字数が増えていき、今ではかなりの長文が送れるだろう(といっても、今はLINEの方が便利でみんなメールを送る機会はかなり減っているはずだ)。

 

携帯「電話」としての役割も大きい。

相手の自宅ではなく、個人に直接電話できるのだ。家族を介することなく、一足飛びで相手と話ができる。すごいぞ携帯電話!てな感じ。

最初の頃は通話料も高かったが、徐々に「毎月一定額を支払うことで指定した番号との通話料はかからない」などのサービスが登場。

世のカップルがキャッキャうふふと電話したかどうかは定かでないけど、少なくとも私と夫(その頃は彼氏)にとっては大変ありがたいことだった。

 

私は一人で容易に外出できなかったし、遠距離だったため会いたいから会おうなどということはできなかった。メールや電話で連絡を取れたのは本当にありがたかった。

 

 

一方、少し遡ることになると思うが、インターネットではチャットができるようになっていた。

メールとは違い、複数人で同時にメッセージのやり取りをする。そうして「おしゃべり」を楽しむのだ。

外出して集団に加わりみんなで談笑する…なんてことはすっかり無縁になっていた私にとって、チャットも楽しみの一つだった。チャットはリアルタイムでのやり取りなので、より「その場で集まっている感」が強かったように思う。

ついつい夜更かしして話し込むということも少なくなかった。

 

また、私はゲームにほとんど興味を持たなかったのでよく理解していないものの、オンラインゲームの登場も、直接関わったことのない人と一緒にゲームができるという楽しさを生み出していただろう。

 

あとは某ちゃんねる。

あまり近寄らなかった。私には単純にその面白さがわからなかったのだが、同じテーマについてどんどん語るのは気持ち良かったのではないだろうか。

 

やってきたわね、スマホさん

そしてスマホの登場。

パカパカケータイ(いわゆるガラパゴスケータイ)でもいろいろできるようになっていたのに、スマホは更に上を行った。

何よりもLINEが驚きだった。

「既読スルー」というのが子どもたちの間で問題になって、いじめに発展する…ということを耳にするが、私にとってはこの「既読」確認ができるということが大変便利なのだ。

 

例えば調子が悪くて入院している友だちがいる。

その人が手術などの大きな治療をした場合、迷惑にならない程度のLINEを送っておく。

そしてそのメッセージに「既読」とついたら、返事なんてなくていい。

「ああ良かった、ひとまずLINEを見るまでには落ち着いたんだ」と思って泣きそうに嬉しくなる。

 

夫にとっては私の安否確認の手段でもある。

「面倒だったり調子が悪かったら返信しなくて良い。とにかく『既読』にして」と言われている。

そうして仕事の合間にLINEを送ってくる。「既読」がつけば安心する…という具合だ。

LINEの「既読」は本来こういう形での利用が正解なんじゃないかなぁ、なんて思う。

…知らんけど。 

 

そしてFacebookに始まりTwitterなどのSNSの登場だ。

SNSはコミュニケーションの在り様を大きく変えたのではないか、と個人的には思っている。

それまでも、インターネットを通じて不特定多数の知らない人と関わる機会は増えていった。だが、SNSより個人的なことをより多くの他者と共有し共感しあえるものように感じる。

 

 

いずれにせよ、インターネットの出現は私のような「動きたくても動きにくい(動けない)人間」のコミュニケーション手段を広げ、(極端な表現をするならば)家や施設という小さな空間から「解放した」と思っている。

 

つづく。

 

招かれざる見舞い客

今年は暖冬というけれど、それでも寒い日はあります。

11歳の入院中も、温室のような院内だったけれど足元は寒かったなぁ、なんて思ったり。

そんなことを考えていると、ふとあの頃にあったお見舞いのことを思い出しました。

 

招かれざる見舞い客

私は…というか、私の両親は当時、学校からのお見舞いを断っていました。

まず、私の状態が安定していないこと。

感染予防の観点から来て欲しくないこと。

そしておそらく、むやみやたらに励まして欲しくなかったんだと思います。

 

また、親戚に対しても同じようにお願いしていました。

私の親戚はみなすぐに察してくれ、ほとんどお見舞いに来ることがなくなりました。

また、もし来るとしても事前に父母に連絡を取り了解を得てからでないと来ることはありませんでした。

 

私自身も自分の体調が不安定で、お見舞いの人にしんどい姿を見られるのも気を遣うのも嫌だったので、誰もお見舞いに来ないことをさほど寂しいとは思っていませんでした。

 

ちなみに、約30年前に私が入院した病棟は小児科ではありませんので、それほどお見舞いに対しての制約はありませんでした。

今のように個人情報が…とかもなく、病棟受付で○○さんおられます?と聞けば病室を教えてもらえました(今は入院時に見舞い客に対して病室等教えて良いか確認されますよね)。

 

とある日。

母が用事で席を外していたときのこと。

 

「ぱきらさん」

声をかけられそちらを見ると、私が通う小学校の、違うクラスの担任A先生とその生徒たちがいました。

 

さて、私は1組(仮)の生徒です。

目の前にいるのは2組(仮)のA先生とその生徒たち。

生徒は5~6人はいたでしょうか。全員女の子でした。

自分のクラスの子がお見舞いに来るならまだしも、違うクラスの子たち。かつて同じクラスだった子はいたけれど、話したことのない子もいました。

 

私は状況を把握できませんでした。

 

この2組のA先生は男性で、熱血先生で有名だった人です。

先生はにこにこ笑顔でベッドサイドに来ました。

生徒たちは髪にリボンをつけていたり、制服とは違うかわいい恰好をしていました。ちょっとしたおでかけのときに着るような格好、とでも言いましょうか。

そして、珍しいものを見るように(実際に珍しかったとも思います)部屋の中をきょろきょろと見渡していました。

 

私はというと、毎日お風呂に入れる状態でもなかったし(というか清拭止まりだったと思う)、髪もボサボサ、パジャマ姿。

 

すごくすごくすごく、恥ずかしかった。

 

何よりも、2組の彼女たちが私になんの興味も示していなくて、先生に言われたからついてきましたという風がありありと感じられて…私はこのとき生まれて初めて、自分がみじめだなと感じました。

 

「頑張ってるか!?」

そう言われて面会が始まった気がします。

今なら「それはそれは頑張っているのでご心配なく」くらいのことを笑顔で言えたでしょうが、当時は私もかわいい(?)11歳の子ども。

もう、ただただ早くこの時間が過ぎることだけを願っていた気がします。

A先生が引き連れてきた生徒たちと会話した記憶はありません。

したのかな…本当に覚えてないや。

 

何分くらいいたのだろう。きっとそれほど長くはなかったはず。

 

最後にA先生に「しっかり頑張るんだぞ!」と言われながら握手されたことを覚えています。

 

泣きたい気分でした。

 

もうね、毎日頑張ってたんですよ私。

というか、頑張って何とかなることなら超絶頑張るんです私も。

でも頑張ってどうにかなることじゃなくて。

 

私は基本的に「頑張ってね」には割とすんなり「ありがとう」と言える優等生なんです(自分で言ってみる笑)。

そして 「頑張ってね」の裏に潜むものが「応援しているよ」とかなら嬉しくもあります。

もしくは、病児のお母さんや看護師さんたちの「(わかる…わかるよ、大変だよね。辛いけどなんとかしのいでね。私もうまく行くよう念じておくから)頑張ってね」という想いがぎゅうぎゅうに詰め込まれた「頑張ってね」もありがたい。

 

けれどA先生の言葉は素直にありがとうと思えませんでした。

私の頑張りが足りないからまだ入院しているんじゃないのか。もっと気合い入れなさいと言われているような、追い込まれていく「頑張ってね」でした。

 

あと、握手されたのもとてつもなく嫌でした。

 

冬ですよ。

外から来たんですよ。手洗いもしてないんですよ。

 

感 染 症 怖 い ( ;∀;)

 

それに、そもそもこの年頃になれば父ともそんな手を握ったりしないのに、なんで先生ってだけで握手するの。私の同意も待たずに手を取ってにぎにぎ。今ならセクハラだ!(…になります?)

 

A先生たちが帰ってから、私は手をすぐに石鹸で洗いました。

 

誰のためのお見舞いか

 同室の付き添い入院中のお母さんから「…誰あれ?」と聞かれたのを覚えています。

「学校の先生」と答えると、なんだかとても怒っていました。

「なんなん、あれ?ずっとうちの子のことジロジロ見てたけど、あんなんが先生なん!?」

 

私は私のことで精いっぱいでわからなかったけれど、A先生はかなり不躾に同室の病児たちのことを見ていたようです。

 

ああ、最悪。

私は情けなくて恥ずかしくて仕方ありませんでした。

 

そのお母さんは「ごめんね、ぱきらちゃんのせいじゃないのに」と謝ってくれていましたが、いやいや、ほんとあんなんが先生でごめんなさい。

 

 

その後このことを知った母は烈火のごとく怒りました。

文句を学校側に伝えたかどうかは知りません。

まあ例え伝えたとしても、先生からすればせっかくお見舞いに行ったのになぜ苦情を言われるのか意味がわからなかったかもしれませんね。

 

今なら思うのです。

A先生に引き連れられて来た彼女たちも意味不明だったことでしょう。

どういう経緯で彼女たちが選抜されたのかわかりませんが、たいして親しくもない…というか車いすに乗ってる同級生がいるなくらいに思っていた子もいたはずで、その子のところへお見舞いに駆り出されて、もしかしたら彼女たちも困っていたかも。

 

病院だ入院だということに縁がなく過ごしていたのに、急にそんな場所に放り込まれてそりゃ戸惑うし、キョロキョロもするって。

 

ベッドの上で弱っちく座っていた私を見て、何か得るものがあったのだろうか。

「ああ、命って大切」とか思えただろうか。

 

…思ってないし思えないだろうなぁ。

 

なんていうか。

人が他者の「命」を自分に引き付けて考えることができるのって、その他者が自分にとって身近だったり大事な人だったりするときだと思うんです。

例えば自分の好きなおばあちゃんが入院していれば元気になって欲しいだろうし、その命が消えたら悲しい。

でも、ただ名前を聞いたことがあるだけの芸能人が「〇〇病で重篤です」と言われても「へぇ、大変だね。助かると良いね」くらいなものではないでしょうか(その芸能人が他界して、ファンがすごく嘆いてるのを見ればまた感じ方は変化するとは思いますが)。

 

私をポンと目の前に出しただけでは、たぶん「命の授業」にはならないんじゃないかなぁ。

 

誰か教えて欲しい。

あれは、誰のためのお見舞いだったのでしょう。

 

 

それ以降、私はお見舞いに来てもらうのがなんとなく怖くなりました。

最近は随分マシになったものの、それでもまだ少し抵抗があって、だから入院していることを本当に親しい人にしか言えなかったりします(入院の回数が多いのでいちいち報告するのが面倒というのもあります)

サプライズ的お見舞いも苦手で…事前に「行くよー」って伝えてもらってからじゃないと、ありがたいけどなんかソワソワします。

この歳になった今でさえも、です。

A先生の置き土産はかなり大きかったと言えるでしょう。

 

そういえばA先生はジャッキーチェンさんに少し似ていると言われていました。

私はしばらくジャッキーチェンが苦手でした。

たぶん、A先生のせいだわ。ごめんねジャッキー。

そんなジャッキーさん、あなたも65歳なんですね。これからもご活躍お祈り申し上げます。

 

…なんの話でしたっけ。

 

 

お見舞いは、その患者と家族のためにあるものだと思っています。

直接病院に「行く」ことが必ずしもお見舞いではありません。

「早く元気になるんだよ」そう念じてくださるだけで、嬉しいですからね。

 

「生産性」という言葉を考える

数年前から「生産性がない」という言葉をよく聞くようになりました。

 

働くことのできない人(納税できない人)、子どもを持たない・持てない人(未来を担う者をつくらない・つくれない人)や、人の手を借りなければ生きていけない病者・障害者に生活保護受給者(ざっくり言ってしまえば税金で生きていく人)かな。

今のところ、私が見てきた中で「生産性がない」に分類されるのはこういう人たちではないかと思っています。

 

いつの世も厄介者らしい

さて、ふと思い返してみると、以前は前述の人たちのことは「社会のお荷物」と表現されていました。

「社会のお荷物はいなくなればいい」とか、そういえば言われていましたよね。

なるほど、私は社会のお荷物とやらに属するのかと特に何の感慨もなく思ったことがあります。

 

でも今はそういう言葉はとんと聞かなくなりました。

「生産性がない」という言葉に取って代わられた感が、個人的にはあります。

 

☆ 

この「生産性がない」という言葉は、なんとなく正しいことを言っているような力強さを持っているのが厄介だと感じています。

「社会のお荷物」という表現は割と直球に悪口です。

でも「生産性がない」という言葉を使うことで、それがあたかも正論であるかのように言えちゃうし、なんならSNS等で堂々と「生産性がない」人たちを批判しています。

 

 だから私も以前は

「私だって納税者の夫のお弁当を作ったり、支えているから生産性がないなんて言わせない!」とか言っていました。

 

では、例えば周囲のケアなくして生きることのできない人たちは生産性がないのか。

そんなことない。

そんなことないのに、生産性という言葉の前では反論しにくい。

だけどどうして他者から「生産性がない」だのと言われなくちゃいけないのか。

そういう、小さな引っ掛かりがずっと心にありました。

 

でもだんだんと、そもそも生産性の有無を人に当てはめて議論すること自体ばかばかしいことなんじゃないの?と思うようになってきました。

 

 

「生産性」という言葉は本来は経済学で使われる用語で、生産活動(モノを作り出すこと)に対してどれだけ生産要素(労働・資本)が貢献しているかの程度を示すこと。

(いろんな辞書だのサイトだのを調べたのでこれという引用元はありません)

 

もちろんただ労働力や資本を投じれば貢献度が増すわけではなくて、生産要素である労働(者)の質の向上のための労働環境改善や、自然環境への配慮が必要です。

だから生産性を考えるとき、それを「人間」に丸ごと当てはめて

「人間が人間の社会への貢献度(生きる価値)を評価する」なんて、ちゃんちゃらおかしいと思うに至ります。

 

  

要するに、人はいつだって厄介者を作りたいんだろうなと感じています。 

生産性うんぬんの言葉が下火になれば、きっと新しい言葉が生まれるのではないでしょうか。

 

それでも私は人間だから

それにしてもみんな、自分は大丈夫だと信じ切っているのが不思議です。

人はいつ病気になるのかわかないし、事故等で障害者になるかもしれない。

それでもいろんな課題を克服し、世間も絶賛するような「生産性がある」状態になれる人なんてほんの一握り。

 

「生産性」を語るとき同時に、

そもそもそういう病気の子どもや人が助かること自体が自然の摂理に反する問題だ!

…という「自然の摂理守るの一番説」を唱える人も少なくありません。

身体的・社会的に弱い人たちは自然淘汰されるべきであり、わざわざ救いの手を差し伸べる必要はない、と。

 

まあねぇ…そう言われちゃえば確かにそうなんだと思います。

先天性心疾患である私は人間でなければ今こうして生きていることはないでしょう。

 

そうなんですよね。

私、人間なんですよ。

 

自然の摂理に反し続けることは良くないのかもしれません。

確かに人間(人類)は過ちを犯してしまうし、反省しなきゃいけないことがたくさんあるでしょう。

 

それでも人間は選んだんです。

「目の前の命を救おう」って。

だから医療が進歩した。福祉が誕生した。

他の動物では選ばなかった道を、人間だからこそ選んだのだと思うのです。

 

今いる医療者も皆、目の前の命を救いたいと思ってくれているはずで、だからあんな「先生過労死しませんか?大丈夫?」てな状況でも共に生きる道を模索してくれている(それが良いとは思っていません。医療者の労働環境改善を願っています)

だから(不備も多々あるかもしれないけれど)福祉制度が発達してきた。

私はそう思うのです。

だから感謝するし、私と同じような人やご家族を応援するし、辛いことがあって消えたくなっても、結局踏ん張ります。

 

もちろん病・障害者の人ならば、こんな医療受けたくなかったという人もおられるでしょうし、こんなに治療して生き続けることに意味はあるのかと悩む人もおられるでしょう。

だからこそ「どう死んでいくか」みたいな議論もされるわけで。

とはいえそれは患者本人やご家族が悩み、葛藤しながら決断することであり、そのご本人やご家族を見て第三者が「そこまでして生かすなんてかわいそう」だの「働きもできないくせに…」だのと言うことは断じて違うと思っています。

 

自然の摂理を唱えるとき、私は一つ思うのです。

どんな動物でも、与えられた命を全うしようとするとか。

ならば、ケアを受けながら生きている人、辛い治療を受けながら生きようとしている人もまた、各々がその命を全うしようとしているのは当然のことです。

それを社会への貢献度うんぬんと言われるのは、私は心外です。 

 

もう一度言わせてください。

「生産性」という言葉で簡単に他者の生きる価値を区別するのはおかしい。

 

私は生産性の有無ではなく、人類が選んだ「目の前の弱い人を救う」「生きる可能性を提供する」という考えに敬意を払いつつ、感謝し、その恩恵を受けたいと思っています。

 

ということで、私は世間さまから見たら生産性がないかもしれないけど、いろんな人の協力を受けつつも、最期までそれなりに楽しく生きていこうと思っている所存です。 

父、付き添う

前回、私が11歳当時の入院で見てきた(自分の母含む)付き添いお母さんたちの話を書きました。

今回は普段全く影も形も存在感のない(ひどいな)父たちの話を。

 

siosio-pakira.hatenablog.com

 

 ☆

とある時期、私のいた病室の入院患者は、私を含めて入院が長引いている子たちで固定されていました。

5人部屋だったけど珍しく3人になり、全員に付き添いのお母さんがいる状態でした。

私のほかは割と小さい子2人。両方吸引などのケアが必要な子でした。

 

ずっと一緒にいれば母同士も親しくなります。

 

どのような経緯でそうなったのか私にはわかりませんが、母たち3人は子どもが比較的安定していることもあって、同じ日にそれぞれの夫(病児からすれば父です)と付き添いを交代することにしました。

 

父、はじめての付き添い

父たちが付き添えるのは1日のみ。

付き添った日が平日だったのか休日だったのかは覚えていません。

ただ当時は週休二日制ではありませんでしたので(全員カレンダー通りの休みの職種でした)、それぞれ父たちがタイミングを合わせて休暇を取った、もしくは祝日を挟んだ連休を利用して交代したのではないかと思われます。

 

私は前もって説明されるし、父が付き添いということに少々不安を覚えつつも(そりゃやっぱり、母とはツーカーで話が通じるけど、父だとそういうわけにもいかないし)納得しています。

が、他の2人は説明しても小さくて理解が難しい。

 

いつものように父がお見舞いに来たなと思ったら、母が外出の準備を始めます。

これまでもそういうことはあったけど、24時間母がいないとなれば話は別。

最初はお母さんがいなくてもなんとなく過ごせていたけれど、帰ってこないことに動揺して泣き始めます。

お父さんたちはなんとかかんとか、お子さんを泣かさないよう(とは言えまあ無理)頑張っていました。

 

父たちが付き添える条件のようなもの

この3人一斉に付き添いがお父さんに代わるということは、

①お母さん同士が親しくなり、またそれぞれが父に付き添いを交代して欲しいと思った。

②お父さんたちがその話に乗り、かつ休みが合った。

③病児の状態が比較的安定していた。

という3点が重なった上で可能になったのだと思います。

 

②は実はなかなかに難しいことだと思っています。

休みを合わすことはもちろんですが、父たちがある程度「子のケアができる」状態でないと付き添いを交代することはできません。

私の父は私の話を聞きながら何をするのか判断しますが、他の2人は「あ、そろそろ吸引しなくちゃ」とか「そろそろ経管栄養の時間だな」という事前察知能力とでも言いましょうか、それがなければいけないし、ある程度実践したことがなければいけない。

かつ、病児の状態をそこそこ把握している必要があります。

でないと先生や看護師さんとコミュニケーションを図ることができません(これは私の父にも当てはまりますね)。

 

③の病児の状態が安定…というのも必須でしょう。

病児の状態があまりよくない状況では、残念ながらお父さんでは対応が厳しいのではないかと思います。

何より、普段お子さんと一緒にいるお母さんがそういうお子さんと離れるのは抵抗があるのではないでしょうか。

 

 

もう一つ重要なのは、付き添いが一斉に男性に代われたこと。

一人でもお母さんが付き添いされていたら、やはりお父さんが付き添うことは難しいと思います。

例え病児の付き添いだとしても、赤の他人の男女が同じ空間で一晩過ごすことは厳しいと私は考えています。

それは父たちを信頼していないとかいうことではなく、寝るときに知らない異性がそばにいたら嫌だなとか…今風に言うならセンシティブな問題ではないでしょうか。

 

お父さん部屋

夜勤の看護師さんが見回りに来たとき、3人の父を見てとてもびっくりしていました。

「うわ!え?お父さんたちが付き添いなの?」

そして

「じゃあ今日はこの部屋はお父さん部屋やね」と言いました。

 

病棟としても(もしかしたら病院としても)、お父さん部屋と名付けられるくらい、お父さんが(しかも複数)子の付き添いすることは珍しかったのだと思います。

 

 

この日は大きな変化もなく過ぎていきました。

良かった良かった。

 

でも、お父さん部屋になってわかったことがあります。

 

父たちは父同士でほとんど話さない。

 

単純に男性女性で比較することはできませんが、やはりコミュニケーション能力が高いのはお母さんたちだと思います。

そりゃもちろん看護師さんや先生相手には会話しますが、おしゃべりを楽しむとかいう機能は完全にオフ。

いやぁ…静かな一日だったという記憶があります。

 

☆ 

母たちより身長も体重も大きな父たち。

お父さんの一人は添い寝できたはずだけど、小さい子ども(そばには医療機器あり)の邪魔をしないようにベッドで添い寝するのは大変だったと思います。

また、私の父含む残りの2人も、ボンボンベッドではなかなか眠ることができず、腰も痛んだようで、その大変さが身に染みたようでした。 

 

私の父があの日どういう気持ちでいたかはわかりません。
特にこれといって変化のない、けれどしんどい娘の相手をするのはどうだったのでしょう。

 

…とか、ここまで書くと私の父がものすごくできた人っぽく感じるかもしれませんが、騙されてはいけません(おい)。

 

私の父だって、今は穏やかで気の良いおじさんになっていますが、子どもから見てもなかなかになかなかな頑固親父でしたし、嫌いな時期もありましたし、いやはや…ねぇ?笑

そこはうすぼんやりと察していただければと思います。 

 

 

昔も今も、お父さんが病児の育児や治療に参加するってハードルが高いのかしら。

病児だった皆さん、どうでした?

そして今現在バリバリ付き添い入院しているお母さんたち、どうですか?

 

約30年前の父の付き添いを思い出しつつ、そんなことを考えています。

付き添い母たちの日常

付き添い入院をされているお母さん方がTwitterで経過報告をされているのを見ると、「良い時代だなぁ」と思います。

 

では、私の入院時(30年超前)母たちは何をしていただろうか。

そんな風に思い、記憶を辿ってみました。

 

 異様な日々

TwitterなどのSNSもなければメールもなく、いや、そもそもスマホも携帯もない時代。

連絡手段と言えば公衆電話から電話をかけるのみで、相手が留守だと留守電にメッセージを残すのが精いっぱい。

パソコンは家庭に普及するずっと前だから当然持ち込むこともなく、DVDもないし、ビデオデッキを病院に持ち込む猛者もいませんでした(ビデオデッキも高級家電だったはず)。

 

あるのは病院のテレビとラジオ(とはいえいろんな医療機器の影響でほとんどガーピーうるさいだけで終わる)、あとは家族が持ち込んでくれる新聞くらいかな?

病棟のテレビにしても見るためにはテレビカードが必要で、お金もかかるので最低限しかスイッチを入れません。

ニュースを目にする機会はあまりなく、世間から隔絶された感覚になったのは、何も入院している子どもたちだけではなかったでしょう

 

起床とともにカーテン開け放ち状態の病棟。

親しかろうが親しくなかろうが、私のような病児や他の付き添い入院中のお母さんたちと挨拶をすることから一日が始まります。

 

言葉を交わすようになれば、話をするようになります。

そのうち互いの子の状態を話し、主治医の話(愚痴含む)をし、情報を交換し、互いに勉強しあう。そしてだんだんとお母さん同士の絆のようなものが生まれていました。

(もちろん人付き合いが苦手なお母さんもいますし、みんなそういうお母さんに無理強いして話すようなことはしていませんでした。でも何か…例えばトイレに全然行けてない等のピンチそうな場面に出会うと、「見ててあげるから早く行きなよ!」的にぐいぐい話しかけてました)

 

お母さんたちは病児の状態が安定していればその間にトイレに走り、ごはんを猛烈な勢いで食べ、洗濯をしに行き、銭湯に飛んで行っていました。

 

トイレの回数は私の母含め、めちゃくちゃ少なかったように思います。

たぶんみんな便秘。

 

そうだ、昔の付き添いさんの椅子って背もたれなしのパイプの丸椅子でした。

 ↑こういうの。

クッションやら座布団やらを敷いても痛いものは痛い。

家から椅子を持ち込んでいる人もいましたが、病児と母に与えられたスペースは狭く、場所をとるものは極力置かないようにしていたので、たいていみんなこのままでした。

 

洗濯場は病院内にあったけれど、洗濯機は数がなくて、平成の世を目前にという時代に洗濯板で洗濯していたような…。

ちなみにコインランドリーは病院の近所にはありませんでした。

乾燥機はなかったはずで、その代わりに乾燥室があり、そこでみんな洗濯を干していました(私は行ったことがない)。

でもいろんな人の洗濯物が干してあるため、たまーに、間違えてシャツを持って行かれたり(返ってこないあたり、間違ったわけではなく盗ったんでしょうけど)。

 

 ☆

ごはんと言えばカップ麺やおにぎり、お弁当屋さんの弁当など(コンビニ弁当はそれほど種類がなかったと思います)。

病棟内に給湯室があり、蛇口をひねれば熱々のお湯が出たので、それは便利だったようです。(すごーくちょっとずつお湯が出る蛇口で、カップ麺にお湯をたっぷり注ぐのは忍耐が必要でした)

ポットを持ち込み、そのお湯を入れておいて病室でコーヒーを飲むお母さんが多く、インスタントカップコーヒーは母たちの愛すべき飲み物でした。

 

今付き添い入院のお母さんたちの間で話題のシリアルはフルグラ等はなく、コーンフレークのようなシンプルなものだけでしたし、ウイダーインゼリー的なものもなく、手軽に摂取できるものの王さまはカロリーメイトだったようです。

ただ、当時のカロリーメイトは粉っぽいしさほど美味しくもなく、不人気でした。

 

また、院内に付き添い入院の人のためのお風呂はなく、病院の近くにある銭湯の場所を先輩お母さんから聞き、お子さんが安定しているときに猛然ダッシュで入りに行っていました。

その際はお母さん同士で声を掛け合い、お子さんに何か変化がみられると、即座に留守番のお母さん(もちろん我が子は見ています)が看護師さんに報告する…というのがなんとなくのルールとして成り立っていました。

 

そして寝るときは、病院で貸し出しているボンボンベッド(リクライニングベッドってお洒落な名前があるんですね)や布団をリネン室へ取りに行き、子どもたちのベッドの横にセット。

↑こんな感じ。でも、こんなに素敵じゃなかったです。

狭い空間、ボンボンベッドは腰が痛くなり、定期的に看護師さんが見回りに来る。

安眠とは程遠い状態でした。

 

みんな、だんだんとそれが当たり前になってきていたけれど、異様な日々だったと思います。

 

娯楽というほどのものはなくて、ゆとりがある時は本を読む人お母さんもいました。

週刊誌も人気。

お母さんたちそれぞれが違う週刊誌を買い、みんなで回し読みしていました。あんなに隅から隅まで読まれて、週刊誌も本望だったと思います。

 

病児以外の家族と離れ、異様な毎日を送れば母たちも精神的に追い込まれます。

ピリピリしているお母さんは多かったし、もともとの体型もあるでしょうが、私の母含めお母さんたちは痩せている人が多かった。

 

母たちの味方であれ

で、冒頭の「良い時代になった」です。

昔のお母さんたちの方が大変だった、なーんてことを言うつもりは毛頭もありません。

今は今ですごく大変だと、いろんなお母さんたちのツイートから垣間見れます。

 

でも、当時の母たちには外部との繋がりがほとんどありませんでした。

 

今はスマホさえあれば使用制限がされていない限り社会の動きを知ることができる。

SNSで他の人たちと繋がることができる。

気持ちを吐き出すことができる。

それは気持ちの上でずいぶん楽になるんじゃないでしょうか。

 

本当に、良い時代になったと感じます。

 

でも社会に繋がれるということは、自分と社会との間に溝があると実感することでもあると思うのです。

 

私自身、入院してスマホからネットに繋ぎ社会の動きを感じると、ときどき猛烈な孤独感を味わいます。社会との溝なんてあって当たり前のことなのに、それでも毎回同じ轍を踏んでしまいます。

SNSで自分よりしんどい人を見るといろいろ不満に思う自分を情けなく思うし、あるいは辛いと発信している人たちの言葉が自分に突き刺さり、引きずられそうになる。

 

そういう時は、しばしネットやSNSから離れて、日々変わり映えのしない入院生活を静かに受け入れることにしています。

 

お母さんたちが、外部と繋がることのできるツールに振り回されることなく、そうしたツールによって目の前のリアルと向き合えるための力が手に入りますように。

SNSがお母さんたちの味方になりますように。

今回、昔の母たちのことを書きながら、そんなことを感じています。

 

 

 

※入院中の写真をいろいろ見返していたら、当時病棟でお世話になっていた保母さん(子ども部屋の子たちのケアのため、看護師さん以外に保母さんが常駐していました)からいただいたカードが出てきました。

なんかちょっと嬉しくなったのでペタリ。

 

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