今日もしおれ気味。

前向きも良いけど、私は今日も大体しおれ気味。

世界は広がり…時々、飲み込まれる。後編

前回のつづきです。

前回は「インターネットの誕生により、私のコミュニケーションの幅が広がった」というお話しでした。

 

siosio-pakira.hatenablog.com

 

 

情報獲得のための通信機器

さて、インターネットの登場まで、人々の情報源となる通信機器はラジオとテレビだったと考えられる。

 

私はラジオが好きで、今でも家事をしながらよく聴いている。

FMの音楽中心も楽しいけれど、AMのおしゃべり中心が特に好き。

ラジオのパーソナリティはラジオの向こうにいるリスナーに語りかける。

だから、なんだか私にも話しかけてくれているような気持ちになるのだ。

 

夫が仕事に出てしまえば一人きりなので、誰かの声が聞こえてくると安心するし、世の中には私以外にもいろんな職業や状態のリスナーさんがいるのだなと、不思議に寂しさがなくなる。

ニュースも案外とテレビより早い場合がある。

速報という形ですぐに伝えられ、かといって長々とその話を続けることはない。私はラジオのこの無駄のなさも好きだ。

 

とはいえ、ラジオよりもテレビの方が人々の中に広く浸透しているだろう。

そして、多くの人が情報獲得のためにテレビを見ている。

 

テレビは手軽に多くのニュースを私たちに与えている。

 

ちなみに私が子どもの頃に衝撃を受けたニュース映像は、日航機墜落事故で助かったお子さん(当時)がヘリで吊り上げられて救助された様子だった。

ただ、何度も何度も放送され続け、今でも節目には映像を使われ、当事者はどのように感じておられたのだろうかと思うことがある。

 

テレビは視覚で訴える。

だからだんだんと刺激的なものになってきたし、各局が競い合って同じテーマをより掘り下げて報道していくようになった(結果的に同じ話を延々としているように感じるし、不安を煽っているのでは?と思うときもある)。

 

けれどテレビは一方通行だった。

テレビ局から私たち視聴者へ。

それを見てご近所さんや友だちと噂話をすることはあっても、その範囲は限定的だったと思われる。

 

 

そこへ登場したのがインターネットだ。

最初は通信速度も速くはなかったので、今のようにサクサクホームページを見るということはできなかった。

それでも、ネットではラジオやテレビで報じられることとは違う角度のニュースを見ることができたし、その「サイトを見た者だけが知っている感」がそそられた部分でもあると思う。

国内のことだけではなく、海外のニュースも身近に見ることができた。

目の前にあるパソコンという箱は文字通り世界を広げた。


一時期、テレビCMで「続きはWEBで!」という手法が流行った。

それほどまでにインターネットは急速に人々に浸透していったと言える。

また、インターネット上にホームページを設置している方が、テレビCMの短い秒数では伝えきれないことを明確に発信できる部分もあったのだろう。

企業は、インターネットの存在を無視できなくなっていた。

 

そして、インターネットは「調べる」ための強い味方となった。

何か疑問に思うこと、例えば〇〇病って何だろう?というようなこと。

それらを検索サイトに打ち込めば(その真偽は置いといて)すぐに答えが見つかる。

 

また、私は通信制の大学に行ったが、履修科目によっては専門書を必要とする場合があった。

そんなときは図書館のホームページで蔵書検索、その専門書があるかどうかを事前に確認した。そうすれば図書館でうろうろする必要がなくなり、一直線でその専門書のある場所へ行くことができて無駄な体力を使わず済んだ。

今では図書館のホームページ上で蔵書予約ができるようになっているところがほとんどだろう。さすがにその本を夫に取りに行ってもらう必要はあるが、これもインターネットの恩恵だなとしみじみ感じている。

 

こうしたことは、外出しにくい(できない)人が知識や学びを深める上で大いに役立ったと思うし、いわゆる健康な人にとっても便利だっただろう。

 

溢れ出る情報、責任の所在

そのうちに、インターネットで自分のホームページやブログを開設する人が増えた。

写真が趣味の人は写真を掲載したし、自分の考えていることや経験談を書く人も多かった。

 

これまで情報を「受け取る」側だった人たちが、情報を「発信する」側にもなれたのだ。

 

そこからの目覚ましい発展は言葉にするまでもない。

そして私たちは膨大な情報をいち早く手にすることができるようになった。

 

私は数年前に夫が留守中に体調を崩し、救急車を呼んだことがある。

時間が19時頃ということもあり、お子さんも含め野次馬がたくさんいて、少々恥ずかしかった。

そのとき、少し離れた位置でずっとスマホを触っている人がいた。

直感的に嫌だなと思った。

想像でしかないけれど、動画を撮っていたのではないかと思う。

「ああ、Twitterにあげるのかな。それならそれで、せめて私の顔にモザイクを…」としんどさの中思った。

 

今、何事かあるとみんな動画を撮る。

衝撃的なものだとそれが拡散され、更にその動画はテレビで使われる。

動画によっては災害のメカニズム解明に繋がったり、記録という意味もあるだろうからそれ自体は否定しない。

 

けれど、動画にもTPOがあってしかるべきではないかと思っている。

 

電車でケンカが起これば動画を撮る(まず駅員さんに言おうよ)。

急に倒れた人を撮る(先に助けに行ってあげて)。

いじめ動画や商品へのいたずら動画…果ては自死しようとしている人の動画を撮り、衝撃映像wwwとか言ってTwitterにあげる。こんなものは論外だ。

 

救急車で運ばれる私を撮るのはセーフかアウトか。

私の中でははっきりとアウトだ。

 

でもこれらは「知る権利」なのだと言う人がいる。

だから動画を撮影、みんなに教えてあげているのだという人がいる。

 

待て待て、その前に撮られている側の個人情報や人権はどない考えとんねん。

そしてお前はその動画を拡散して責任を負えるのか。

 

 

テレビでもたまにとんでもない間違いを報じ、視聴者や放送倫理・番組向上機構BPO) から指摘を受け謝罪することがある。

けれどテレビ番組にはそれぞれ製作スタッフがいて、スポンサーがついている。

最終的な責任はテレビ局にあり、責任の所在が明確だ。だから謝罪する。

 

対して、ネット上の情報に関してはその責任の所在がとても曖昧だ。

「目立ちたかった」「こんなに拡散されるとは思わなかった」等々の言い訳を多く聞くが、その文章や動画を公開する前に、責任について考えないのかなと思う。

 

私は、みんなの「匿名」であることで何でもできちゃう感が強いのがとても怖い。

 

また、インターネット上では情報が山盛り提供されているが、その中のどれが正しい情報なのか、どれほど「真実」が潜んでいるのかは受け手によって大きく異なるのも現代ならではだと思っている。

(例えば、△△という食品は免疫力を上げる、というニュースを丸ごと信用すればその人にとってはそれが真実であり、信用しなければフェイクニュース、あるいはデマとなる。ここに、科学的根拠等や裏付けはなんだろう?と考える視点が欲しいなと思う)

 

 

今回の新型肺炎のことにしても、間違った情報は多いし、デマもある。

多くの情報が拡散され、情報一つひとつに動揺する。

 

もう、何がなんやら。

溢れる情報の渦に飲み込まれると言っても言い過ぎではない気がする。

 

どんぶらこ、と流されて

それでも、私はこの時代の流れに乗れたことをとても感謝している。

 

同世代が社会に飛び出し始めた頃、私はまだまだ家の中でしか生きていなかった。
家族と常に一緒にいるというのは、なかなかしんどいものだ(家族側もしんどかったと思う)。

そんなとき、インターネットを通じて他者と関われ、いろんな情報を得られたことで私は一人ぼっちではなくなった。

 

一方で今、インターネットやSNSは転換期を迎えているのかなとも思っている。

 

今や情報の発信者と受信者の線引きはほとんどなくなっている

今、自分が知ったその情報を、他の人に早く伝えたい。伝えなければ。

そうしてあっという間に拡散。

気がつけば情報を受け取った私が、情報を発信した人になっている。

コミュニケーションと情報収集がないまぜになった今だからこそなんだろうなと思う。

 

とはいえ、そのないまぜ感が力を発揮することは多い。

例えば有名人や芸能人が、自身の病をネット上で公表、それが拡散されて世の中に「そういう病があったんだ」と知らしめることは多い。

そしてその病は社会に認知される。

本人が発信することで、これまでにない「生身」の患者の声が伝わるわけで、だからこそ人の心に響く。

 

ただ、その有名人や芸能人が治療後に復帰し社会で再び活躍し始めると、「この人はまた仕事ができているのに、なぜあなたは同じ病気なのにできないんだ」てなことを言うとんちんかんな人が結構いて、その点はいかんともしがたい。

「たとえ同じ病名でも、個人により状態は異なる」という捉え方をして欲しい。

 

 

今は情報過多気味だ。

そして、人と関わり過ぎている気がする。

人と簡単に関われること自体は素晴らしい。それは私自身よく理解している。

でも人の感情に触れすぎると疲れる。

みんなの不安や怒り、苛立ち…触れるとヒリヒリする。

悲しんいる人がいると、その悲しみに引きずれらそうになる。

 

ならばTwitterをやめて、インターネットに接続するのやめれば良いじゃんと言われそう。

だけど私はやめないし、やめられない。

 

確かに疲れるときがあるのは事実だ。

でも、例えばTwitterで私が何かをつぶやいたら「いいね」してくれる人がいる。

それは必ずしも共感のいいねではないかもしれないけど、いいねを通じて私は背中をさすってもらったり、押してもらえている。

そして、私の知らないことや同じような想いを、他者のつぶやきから知ることができる。そういう視点があったのか!と思うことや、あなたも私と同じなのね…そんな風に感じること。

私は一人じゃない。

孤独じゃないことは、本当にありがたい。

 

今回の新型肺炎の騒動の中でも優しい気持ちの人はいるし、支えあいも生まれている。

インターネットを通してお子さんの勉強支援・時間を有効利用できるような支援をしようとしている人や企業は多い。

(とはいえ、民間企業やボランティアさんたちの好意に甘んじている部分が多いのはいかがなものかとも思っている。でもこれはまた別の話なので置いておく) 

 

 

不安は不安を招くけれど、同じように喜びは喜びを招くと思っている。

 

宗教や民族間、文化による考え方の違いをすべて同じにすることなんて難しいし、同じにしようとすることは多様性を否定する。

だからみんなが同じ方向を向くことなんてない。

でも、一個人が小さな声を発することができ、それに耳を傾けられることができるなんて、しかもそれが地球規模(言語の問題はさておいて)だなんて、とっても素敵なことだ。

それこそが「他者を知る」ことだと思う。

それこそが「情報を手にする」ことで、世界が広がるということなんだと思っている。

 

ネット社会では「人との差」をまざまざと見せつけられることが多い。

でも、同じくらい「人と大差ない」ことを感じさせてくれるのだと私は信じているし、信じたい。

 

今が転換期だとして、この先インターネットと共にある社会はどのようになって行くのだろう。

答えはわからない。だって誰も見たことがないのだもの。

でも私はインターネットに出会えて本当に良かった。

 

いつの世も「だから若いヤツらは…」と言われてしまうが、生まれたときからネットが当然のようにある世代の子たちは、どんな未来を創るのだろう。

長生きして、この先を見てみたい。

そして意見を求められる機会があるならば、

「インターネット、なんじゃかんじゃ言いつつ最高やで!」

…と、大きな声で伝えたい。

 

インターネットはもともと軍事利用を目的として開発されたと言われている。

そういう側面は今後もあるだろうけど、 できうるならば、このインターネットが今のような形で活用され続け、みんなが少しずつ穏やかに生きて行ける手段の一つになっていれば良いなと思う。

 

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特に答えのない記事です。 

前後編にわたる長文にお付き合いいただき、ありがとうございました。