今日もしおれ気味。

前向きも良いけど、私は今日も大体しおれ気味。

学びは遠くて

入院中の勉強って、皆さんどうしてたんでしょう。

 

11歳の時の入院は長期間に及び、私はすっかり学校の勉強についていけなくなっていました。

 

院内学級への道

病院でも公〇や〇〇ゼミみたいな通信教材で勉強していたものの、しんどいと気力が湧かないし、あれよあれよと置いてけぼりに。

 

ということで、私の両親は考えました。

「院内学級」へ通えないだろうかと。

 

ところがこの院内学級に通うためには、正式な転校手続きが必要なのでした。

退院して落ち着けばまた今の学校に通うのに、わざわざ転校手続きを?

そしてもし院内学級から元の小学校に戻るとしたら、再び転校手続きが必要になるとのこと。

 

私の入院は長期に渡っていたけれど、だからと言って今後も長く入院し続けるかどうかは不明です。

ならば転校などせずとも、しばらくの間だけでも院内学級に通えたら…。

と考えるものの、転校手続き必須。

 

ひとまず私は小児科の中にある院内学級を見学することになりました。

 

車いすで小児科に連れて行ってもらい、見学。

そこにはお馴染みのそうくんもいました。

(そうくんについては 師匠は小学4年生 - 今日もしおれ気味。 をご覧いただければと思います)

 

そのほかにもチラホラと小学低学年~高学年の子どもたちがみんな一緒に勉強しています。

私は、ここで勉強できるのかな、楽しそうだなという気持ちと、転校したらどうなるのかな、学校へ戻ったら(これまでの)クラスの子たちはどう思うのかなという気持ちが入り混じっていました。

 

で、結局。

 

院内学級には通いませんでした。

見学させてもらった直後からまた状態が不安定になり、院内学級への通学が難しくなったのです。

また、転校手続きにはかなり時間がかかるとのことで、両親は転校手続き中に退院→再転校手続きということもあり得る…と踏み切れなかったようです。

 

今現在、院内学級へ通うためには転校手続きが必要なのでしょうか。

今回この記事を書くにあたってほんの少しだけ調べましたが、やはり基本的には転校手続きが必要そう。

臨機応変に対応してくれるところもありそうではあるものの、地域によるバラつきがある様子です。

 

30年も経ったのに

私が院内学級に通えないかと思ったのが約30年前。

30年です。

 

たまに報道等で「入院している子どもに学びを」とかいう特集で、分身ロボットを使って学校の授業に参加するとか、オンラインで指導を受けるとかいうのを見かけます。

確かにすごい。すごいけど…わざわざニュースになるんです。大多数がそうした教育を受けられないからこそ、紹介されるしニュースになる。

病気や障害で入院している子どもたちに対する教育環境は、30年前からほとんど進歩していないのではないかと感じます。

 

30年の間にどんだけテクノロジーだのウェブ環境だのが進化したと思ってるんだ。

もっとなんとかならんのか(怒)。

 

分身ロボットで授業に参加もそれはそれで素敵。

でもその時しんどかったら参加できないし、そもそも分身ロボットの初期投資は誰が行ってくれるのでしょう…(補助金とか出るのかしら)。

 

授業風景を動画で撮影し配信してもらい、タブレットで横になりながらそれを見るとか、課題プリントをもらって、わからなかったら先生にLINEで質問していくとか(先生の負担が大きくなる点は課題になるかと思われます)。

もっと安くお手軽にできることはないんかい。

 

ちなみに。

私は高校2年生の時にも長期入院をしました。

最初は休学しましたが、いろいろと考えた末、最終的に中退を選びました。

この時から約10年後に通信制の高校へ編入(高1の取得単位は生きてました)、卒業することができました。

そして通信制の大学へ。

この時私はとても嬉しかったです。

勉強できることがこんなに嬉しいなんて思わなくて笑、驚いたものです。

(この時期のことはまたお話しできればと思います)

 

 

 

学びたい気持ち体の状態の安定をバランスよく保つことは意外に難しい。

 

 

歴代の主治医の一人によりますと

「勉強したら交感神経と副交感神経のスイッチが切り替わるから不整脈は出るよ。勉強に集中できなくても当たり前」

だそうで、学ぶ・学び続けることは案外とハードルが高いのだと思います。

 

それでも、無理してでも勉強したり学校に通い続ける子はいるでしょうし、でもやっぱり苦しくて涙する子もいるでしょう。

  

その昔、子どもの頃。当時の主治医に

「ぱきらちゃん、君には考える頭があるよ。運動はできないけど、勉強はできる。勉強を頑張りなさい」と言われたことがありました。

 

勉強によってその能力が開花できるかどうかは別の問題ではありますが、本来「学ぶ」という行為は、先天性心疾患のような内部障害者にとっては得意な分野であるはずです。

けれど実際は、勉強をしたくても環境が整わないことが多いのです。

 

しんどい中でもしんどいなりになんとか勉強ができれば良いと思いますし、そういう環境が当たり前に提供されたら良いのに…と、自分の経験からも、強く感じています。

 

 -----

国民の三大義務の一つである

「教育の義務」

憲法第26条

 1項 すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。
2項 すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は、これを無償とする。

ーーーーー

 

教育の義務は、子どもたちに課せられた義務ではありません。

子どもたちに教育を「受けさせる」義務があるのです。

 

30年前は、確かに「生存させる」ことに重きを置いていたでしょうし、勉強なんてぶっちゃけどうでも良かった部分もあるでしょう。
でも、今は長生きできるようになってきたのだから。


いろんな事情でうまく学べていない子どもたちが、「学び」を当たり前のものとして享受できないものかと思います。

 

あの頃の風景②

前回、入院中に出会った人たちのお話をしました。

今回はこの続きです。

 

siosio-pakira.hatenablog.com

 

食べたらあかん

 私の隣のベッドに入院してきた同世代の男の子。

手術が終わればすぐに退院できる予定の子でしたが、お母さんに付き添ってもらっていました。

男の子自体は静かな印象だったはずだけど、お母さんが挑戦者というか…。

 

術後、彼はまた同じように私の隣のベッドへ戻ってきました。

付き添い入院していたお母さんは自分の食事確保のために、病院の外でご飯を買ってくることがありました。

そんなある日のこと、お母さんはマクドナルドのバーガーセットを買って来ていました(男の子がそう言ったのでわかりました)。

 

当時はマクドナルドのお店はそんなに多くなかったし、価格もそこそこ良いお値段でした。ということでお母さん、買ってきたバーガーやポテトの余り?を保管。

とは言え冷蔵庫のレンタルをしていたわけでもないので、常温…というより、院内は常春。大丈夫?

でも私がそんな風に思ったのは一瞬で、人さまのごはんを気にすることもなく翌朝を迎えます。

 

翌日。男の子がマクドナルドの何かを食べたがっているような声が聞こえてきます。

いや、それはあかんよ。

君、術後やし、退院決まってるし、そんな危ないことしたらあかん。

と、子どもの私にもわかること。

…が、お母さんにはわからなかった!!(驚)

 

お母さんがバーガーとかが入っている袋を開けて、くんくん匂いを嗅いで様子をみている模様。

そして、男の子に渡す…。

 

結果。

男の子はしっかりお腹を壊してしまい、エライことに。

ただ、比較的元気な子はすごいなと思ったのですが、それでも落ち着くのが早く予定通り退院して行きました。しゅごい。

 

この男の子やお母さんを悪く言いたかったのではなく、一つの事例として挙げました。

というのも、こういう風にお母さんが子どもにおやつ等を与えてしまうケースはままあったのです。 

ダメだと言われてるのにチョコを与えているのが発覚、普段穏やかな先生が「もうほっとけ!」と怒っていたケースもありました。

 

ここからは私の私見なので「そりゃ違うよ」と思われる方もおられるとは思うのですが…。

 

昔は心疾患があると二十歳まで生きられないとか言われることが多くて、だから「好きなことを好きなだけさせてあげる」「求められることはすべて与える」のが良いと考えている保護者もいました。

そしてなぜだか軽症の子の保護者にその考えが強くなるようで(重症な子の保護者は、生きるためになるならと結構厳しい我慢をさせていたように思います。もちろんこれはこれで問題があるとは思っています)、結果、甘やかされ放題のわがままな子もいました。

もちろんそんな子や保護者ばかりではないことはわかっています。

ただ、私が見てきた子たちがほんと、そういう感じが多かった…。

保護者は甘く、祖父母も甘く、王さまのような子もチラホラ。

 

私には子どもがいないので、子どもに対する親御さんの気持ちというのを理解できているとは言えません。そして今は長生きできる先天性心疾患の人が増えてきているので、親御さんの対応も昔とは違っていると思います。

でも、「好きなことを好きなだけさせる」というのはやめて欲しいなと思うのです。

 

あの子たちは、きっと生きている。

手術をしたらいずれ不整脈が出るとわかってきたのはそれほど昔のことじゃなくて。

いろいろと体に不具合が出てきているかもしれません。

思い通りにならなくて、深く傷ついていないだろうか。そんな風に考えています。

「好きなことを好きなだけできないこともある」ということをなんとなーく、それとなーく、伝えてあげて欲しいなと思うのです。

 

…ま、それがわかっていたとしても、できないときはそれ相応に辛いのですが。

 

あなたから見た私

入院中、何人か心疾患のあるダウン症の子に出会いました。

まだ小さい子が多い中、印象的だったのは私と同世代の子です。

とはいえ、彼女との会話は少し難しくてあまり多くはなく、代わりに彼女のお母さんとお話しすることが多かったです。

彼女のお母さんはなかなかパワフルな人で、言いたいことをズバズバ言う人でした。そうでなければ世間を渡り歩くことができなかった、という側面もあるのかもしれません。

 

そのお母さんだったと思います。

「この子たちは感受性がとても豊かな。だから自分に良い感情を抱いていない人たちのことがすぐにわかるのよ」とおっしゃいました。

なんでも、彼女は自分に良い感情を抱いていない人が来ると、ものすごく嫌がるんだとか。そうしてそういう相手はたいていお母さんもいけ好かないヤツと思っている人だそう。

 

私は、ダウン症の人や発達障害の人には特別な能力があるのだとか、秀でた能力があるのだとかいって持ち上げる話があまり好きではありません。

だって、確かにその人はその能力を開花させたかもしれないし素晴らしいことではあるけれど、たいていは特別な能力なんてなくて。

ダウン症発達障害に何を求めてるの?という感じの妙な期待値が上がることが嫌なのです。

病気だからその能力が注目されるわけじゃなくて、「その能力が抜きんでた人が偶然病気(障害)であった」というのが本来だと思うのです。

 

だから感受性が豊かというのが特別な能力だというつもりはありません。

ただ、人を見る「見方」のようなものが少し違うのかもしれないと思っています。

その目で見たとき、自分に対して良い感情を持たない人が近づくと、少し違って見えるのかな、なんて。

 

こちらから見た彼らではなく、彼らから見た私はどういう感じなのかな?

あの時はそんなこと思いもよらなかったけど、今はそういう風に考えることがあります。

 

たぶん、心疾患だから

彼女が果たしていくつだったのか、当時の私にはわかりません。

もう覚えていないというのが本当のところですが、高校生か大学生だったかなとうっすら記憶しています。直接顔を合わせることもありませんでした。

 

周りのお母さんたちの話が漏れ聞こえてきただけでしたが、覚えています。


心疾患の女の子。

元気そうな女の子だったらしいけど、予期せぬ妊娠だったんだと思います。

中絶のための入院でした。

 

若かったからなのか、心疾患だったからなのか、望まぬ妊娠だったのか…わからないけど、そういうことでした。

漏れ聞こえる情報によれば、「心疾患だったから」が有力でした。

いえ、仮に若かったからだとしても…心疾患だからこそ、循環器や外科のフォローなくして中絶はできなかったんだと思います。

この当時、私はまだ自分が妊娠・出産できないとは理解していませんでした。

でもこの時なんとなく「赤ちゃんを産むのはしんどいのかな」という刷り込みができました。

私は二十歳前後で「自分は妊娠できないだろう」と認識しましたが、その時もあの中絶しに来た子を思い出してなんとなくすんなり納得したのでした。

 

当時はわからなかったけど、彼女はきっと傷ついただろうな。
 体の負担も大きかったはず。

 

完璧な避妊なんてない。

それでも避妊の方法や大事さ、仮に妊娠した時の体(心臓)への負担を知っていればあの中絶は避けられたではないだろうか。いらぬお世話に他なりませんが、そんな気持ちになるのです。

出産が可能か否かはまた別の問題です。

それはおそらくその時の当人の体調や医療技術で違うでしょう。

でも、それ以前に避妊について学ぶ機会は必要だと思います。

二十歳以降も生きられるようになったからこそ、だからこそ。

 

 

そんなこんなの、あの頃のことでした。

あの頃の風景①

11歳の入院中、いろんな人に出会いました。

私はそれまで家族や親戚、学校以外の人に接する機会がほとんどなく、小さな世界で生きていました。

 

以前お話ししたように、入院生活は異世界での暮らしでした。

 

siosio-pakira.hatenablog.com

 

痛いことや辛いことはたくさんあったけれど、私はその異世界での出会いや生活を通じて、人として成長した面もあると考えています。

よく「自分の人生に色がついた」という表現を聞くことがあります。色というのは少し違うかもしれないけれど、確かにあの期間のことは私にも鮮やかに刻まれましたし、私を私たるものにした原点はあそこだったと思っています。

 

そんな、あの頃あそこで出会った人たちについて、少しお話しできたらなと思います。

30年超前のこととはいえ、プライバシーもありますし、若干ぼんやりさせる部分もあります。それに、鮮やかに刻まれた記憶といえどあの頃の純粋さはもう私にはありませんし笑、大人になった目線も入るかと思います。

そんな私の思い出話にお付き合いいただければ幸いです。

 

※私が入院していた病棟には主に

 心臓血管外科、小児循環器科放射線科、心療内科 の人たちが入院していました。

 

心療内科のお姉さん

当時心療内科知名度は低く、私もこの入院で初めてそういう科があるのだと知りました。

今よりも心の病に対する見方ははるかに厳しく、「甘えてるだけだ」とか「気持ち(やる気)の問題」という意見が多かった時代に、心療内科を受診するという行為自体とてもハードルが高かったと思われます。

 

心療内科で入院している人のお見舞い客は家族以外ほとんどいません。

入院していることを秘密にしていたのか、それとも偏見で誰も寄り付かないのか、とにかく家族以外のお見舞いを見かけることはありませんでした(家族のお見舞いもほとんどない人も少なからずいたように思います)。

 

心療内科の先生は一人きりで、とても静かな先生でした。

患者さんたちの前で大きな声を出しているのを見かけたことはなく、今でいうところの傾聴を大切にされていたように思います。

患者さん一人ひとりの話を静かに聴いている、もしくはただ黙ってそばにいるだけの時もありました。

 

私は、(時期はそれぞれ違いますが)二人のお姉さんと知り合いました。

 

一人はうつむきがちで、いつも何かを考えているように見えるお姉さんでした。もしかしたら高校生だったかも。大人びていて、黒い長い髪をきちんと束ねていた人。

たまに笑うんだけど、すごく優しい笑顔だったのを覚えています。

 

もう一人は就職されていたので成人は過ぎていたはずです。

とても綺麗好きで、起床とともに自分のベッドを皺ひとつなく整え、夜までベッドに座ることのない人でした。

シャワーの後、シャンプーとコンディショナーのボトルを水滴一つ残らないようタオルでふきふき。私は割と几帳面なつもりでしたが、このお姉さんを前にしたらなんて雑だったのか…という感じ。

そして常に手を洗っていたので手が荒れていました。

洗わないと気持ちが落ち着かなかったのかもしれません。

 

いつも明るくにこにこしていました。

お仕事が幼稚園の先生か保母さん(保育士さん)だったと思うのですが、周りにいた付き添い入院中のお母さんたちが「汚れることも多い仕事だろうし、しんどいだろうなぁ」と言っていたのが印象に残っています。

彼女にとっては小さい人が汚すことと、自分が汚すことは別物だったのかなぁなんて、今だから思ったり。

 

二人とも真面目な人だったと記憶しています。

真面目で、まっすぐ。そんなイメージでした。

 

あの頃と今と…少しは時代が進んだのでしょうか。

心がしんどい人が、しんどいと言える時代になっているのだろうか…。

今どうしているかは知る由もないけれど、少しでも彼女たちが楽しいと感じることの多い日常であれば良いなと思います。

 

泣けない赤ちゃん

私が入院していた病棟には、小さい人や赤ちゃんも多くいました。

ヘリコプターで搬送されてくる子もいたので、全体的に重度の子たちがいたのかもしれません。

 

みんな体が小さくて、泣いているんだけど声にならない子(声を出すだけの体力がない)や、泣くと真っ赤とかじゃなくてチアノーゼで真っ黒になる子。

当時はパルスオキシメーター(酸素飽和度を計る機器)がメジャーな機器じゃなかったし…というか、いつからこんなマメにspo2をチェックするようになったのだろうと思うくらい、spo2を調べることはありませんでした。だから、たぶんわかっていなかっただけの話で赤ちゃんみんな、かなりspo2が低かったのではないでしょうか。

 

泣くことは赤ちゃんの仕事なんだろうけど、それができない赤ちゃんが多くて。

泣く姿が本当に苦しそうで、お母さんが席を外している間に泣いちゃうとどうしたら良いのかわからずおろおろしました。

 

手術をして泣き声に力が出るようになると「ああ、元気になったんだなぁ」と思いました。

ただ、やはり泣くことは負担になるからと基本的に「泣かせないで」と言われていたため、お母さんたちはあの手この手でなんとか泣かないようにしていたので、長時間大きな声で泣く赤ちゃんはいませんでした。

私には弟や妹がいなかったし、赤ちゃんがどう泣くのか知らなくて。

こういう泣き方が標準的なものだと思っていました。

 

その影響か、私はこの年になってもギャン泣きしている赤ちゃんを見かけるとびっくりします。長時間泣きっぱなしだと「え…肺とか負担大きいんじゃないの?親御さん止めなくて大丈夫?」と勝手に心配するし、「こんなに泣けるということは、めっちゃ体力ある赤ちゃんなんだな。なんと素晴らしい…」とこっそり感激するのです。

 

赤ちゃんや小さい人がほんのちょっとでも泣くと「うるさい」という人がいるそうですが、泣くと真っ黒になる赤ちゃんを見てごらん。

もう、しっかり泣いてるその姿が尊いと思えるから。

 

最期まで、一人きり

病棟には個室があり、入ったことはないけれどかなりの料金がかかる特別室のような部屋もあったようです。

そういう部屋に入る人はたいてい経済的に豊かな人でした。

だけど、家族関係が充実している人は少なかった気がします。

 

そういう年配の人が入ると、家政婦さん(今風に言えばヘルパーさんみたいな感じ?)を雇う人が多くて、その人たちが患者さんのお見舞いをし、洗濯をし、介助していました。

割と何でもしゃべってしまう家政婦さんもいて(個人情報うんぬんの時代じゃなかったから筒抜け)、会社の人の出入りはあるけど、ご家族がお見舞いに来ないのよ~なんて言われている人もいました。

 

亡くなっても一人きり。ご家族が来ないケースもあったようです。

 

そういう風に至ったのは、その人自身とご家族の問題です。

だからどうこう言うつもりもなかったけれど、子ども心に「死んじゃっても誰も来ないのは寂しいなぁ」と思ったものです。

 

放射線科のおばちゃんたち

放射線科」という科も、この時初めて知りました。

どんな病気の人たちなんだろうと思っていたけど、どうやら癌の人たちらしい、ということがわかりました。

おばちゃんたち(おじちゃんもいたけど、私が関わるのはおばちゃんばかりでした)は放射線治療のために入院している人ばかりだったと記憶しています。

たぶん、今みたいにピンポイントで照射するのが難しかったのか、癌の位置によっては肌の一部が浅黒くなっている人もいました。

 

ぱんぱんにお腹が脹れているおばちゃんもいて、「赤ちゃんがいるのかな…それにしてはうちのお母さんよりずっと年上だろうし」と思ったりもしました。

「腹水よ」と、こともなげに教えてくれたおばちゃん。

私、きっとジロジロ見てたよね。ごめんなさい。でも、おかげで腹水という状態を知ることができました。

あれ以来、お腹の大きい女の人がいても妊婦さんと決めつけるのはやめようと思いました。

 

リンパ浮腫になっていて、足がものすごく大きくなっているおばちゃんたちもいました。たいてい医療用の着圧ソックスを履いていたけれど、あまり効果がないのだと教えてもらいました。

 

照射はすごくしんどくてだるくなるようで、横になって静かに寝ている人が多かったです。

 

あの頃はおばちゃんと思っていた人たちは、当時の母よりは年上で、でもおそらく今の私と変わらない40代以降の人たちだったのだと思います。

お子さんがいる人が多かったのか、基本的におばちゃんたちは優しかった。 

 

異世界は自分の知らないことだらけ。

入院生活の日々はしんどかったけど、私はあそこで「私以外の人たちの存在」に気づけたように思います。

 

今小さい人たちが車いすの私や酸素ボンベをころがしてる私を凝視していたとしても、あの頃の自分を思い返してみればそうだろうなぁと思うのです。

 

「知らない」のだから興味がある。「知らない」から知りたい。

その気持ちは当たり前で、失って欲しくないなとも思います。

もちろん、なんじゃこりゃという目で見続けられるのは、正直気持ちの良いものではないけれど。

 

というわけで、そういう子たちと目が合うと、可能な限りにっこり笑うようにしています。君が見ている君とは違う感じのおばちゃんは怖くないぞ!と念じながら。

…ま、私は外出する際ほとんどマスクをつけているので、笑顔だとわかってるかは微妙ですけどね。

 

「見ちゃだめよ」という親御さんたちは昔よりはるかに減っています。

というよりも、(主に車いすの人だと思いますが)障害者や病者がたくさん社会に出ていくようになり、親御さん世代が「自分と違う人」を幼い頃から認知しているようになったのかもしれません。

 

社会はまだまだ「自分と違う人」「その他大勢と異なる人」を見る目が厳しくて、やるせないことが多いです。

今を生きている子たちが大人になる頃には、もっともっと「自分と違う人の存在」を受け入れる社会であれば良いのにな。

 

そんなことを思い出す、あの頃のことでした。

 

でもまだいろんな人たちと出会ってきましたので、来週も続きます。

 

ヒューマンエラーは起こりうる

今回、11歳の入院中に起きた2度目のアナフィラキーシショックについて書く上で最初に申し上げておきたいのは、私は医療者を非難したいわけではないということです。

 

アナフィラキシーは突然に

【序】

その日は採血をする日でした。

点滴ルートがあるのでそこから抜こうということで、看護師さんが2人ほど必要な器具を持って登場。

新人看護師さんとベテラン看護師さんのコンビ。新人さんが点滴ルートからの採血の練習をする模様。

 

昔の点滴ルートは今みたいにコンパクトではありませんでした(当時としては最先端ですが)。針を固定するテープも今のような透明フィルムではなかったので、一度刺して固定をすれば、針そのものの状態は確認できません。

また子どもだったからということもあったとは思いますが、チューブは長く、三方活栓(だったはず)だってゴツい。

それでもルートからの採血はざっくり書けば

三方活栓を開いて→採血して→血液を戻すのと一緒にヘパリン(病院によっては生食)ロック というもの。

看護師さんからすれば慣れない間は難しいのかもしれませんが、患者から見れば簡単そうに思えます。

 

ところが緊張からか、新人看護師さんはまごついていました。

母はずっとそばで見られてるのも嫌かなとカーテンの向こうへ(当時私がお世話になった病棟では、昼間はカーテンは開け放たれていますが、処置中は閉めます)。

 

なんじゃかんじゃと先輩看護師さんの指導を受けながら採血終了。

私も看護師さんたちもなんとなくホッとした気がしました。

 

【破】

「ぱきらちゃん、それじゃあね」と言われて看護師さんが出ていき、母が戻ってきました。

と、突然私の右手の指が痒くなり始めます。とても嫌な感じの痒さ。私、この痒さ知ってる…。

「お母さん、痒い」

しゃべることができたのはここまでです。

とにかく痒い。皮膚はもちろんのこと、しかしそれよりもなによりも、体の内側、内臓すべてが痒い。止まらない。

私にナースコールを押すゆとりなどありませんでした。

 

母がすぐにアナフィラキシーショックだと気がついてナースコールを押すも、返ってきたのは「はーい、ちょっと待ってね」というのんきなもの。

だって私は日ごろ急変しない子だったから、看護師さんからすれば慌てる必要もなくて。

「誰か来て!!!」

母がナースステーションに走っていったのかどうか私は覚えていませんが、のちに同室のそうくんによると「おばちゃんがあんな叫んでるの初めて聞いてびっくりした」らしく、絶叫に近かったのではと思われます。

 

私のベッドをたくさんの人が取り囲んでいるのはわかりました。

ガラガラと、あまり使用していただきたくない器材が運ばれてくる音もします。

先生も来ました。

「ぱきらちゃん、わかるー?」

と言われて返事をしようにも声が出ない。喉もすごく痒いんだもん。

私自身は意識を手放した認識はないのだけれど、後で聞くと意識を失っていたとか。

いやぁ、ひどい目にあいました…。

 

同室の付き添い入院中のお母さんによれば、私の採血をした新人看護師さんはただただ泣いていたとか。まあそりゃそうだよなぁ…。

 

このときほど、母がいてくれて良かったと思ったことはありませんでした。

母がいなければナースコールを押すこともできないまま、私はなかなか発見されなかったでしょう。そして最悪の事態へ…という世にも恐ろしい結末が待っていたと思われます。 

 

【急】

1度目の、術後すぐのアナフィラキシーショックの原因はとある抗生剤の影響ということがハッキリしていました。術後の抗生剤の点滴を開始した途端のショック。疑いようがありません。

 

では今回は?

そもそも点滴ルートからの採血でアナフィラキシーショックが起こること自体おかしい。新人看護師さんがもたもたしたとしても、おかしい。

その原因はなんだったのか。調査が行われました。

 

結果、原因不明

 

採血の際に何らかの抗生剤か薬剤が混入したのは間違いないが、それが何であるのか、どういう経路で入ったのかは不明。

これが最終的な結論でした。

 

ミスを隠したいとかそういったことはなく、私が今後何の薬剤に反応する恐れがあるのかを把握するためにもと、かなりいろいろと調べてくれたようなのですがサッパリわからないままでした。

 

先生は「痛い思いをするのはかわいそうだからとルートからの採血にしたのに、結果的にもっとかわいそうなことをしました」と言っておられたとか。

 

 

私は謎のアナフィラキシーショックを起こし、その原因がわからないまま30年超が過ぎました。

あれ以降、ルートからの採血が行われることはなくなりました。

病院が変わっても、そのときの話をしてルートからの採血はなるべく控えてもらっています。

 

そしてあれ以降今に至ってもなお、私はヘパリン(や、生食)ロックが極端に怖いのです。注入している最中にヘパリンや生食のにおいが鼻の奥の方までするときなどは、特にぞわぞわします。

 

一度、10代後半か20代前半の頃に救急外来で当時の主治医に点滴ルートを確保してもらったことがありました。

薬剤(抗生剤ではない)を流し始めた途端に全身に薬剤が広がるのがわかり、鼻の奥で強いにおいを感じたときは「あ、これやばい」と思いました。

で、「先生、これ外して!」と叫ぶとともに後ろにひっくり返ったことがあります。

すぐに治まったけど、先生びっくりしてました。

(私もびっくりしたけども)

 

先生のミスというよりは、何らかのものに反応したのでしょう。

先生はアルコールを疑ったらしく、その後しばらく採血のたびにイソジンでまっ茶っ茶に消毒されることになりました。

 

でもそれも、結局何に反応したのかは謎のまま(アルコールも平気)。

 

私…

 

ミステリアスぱきら ですよね。

 

…いや、そんなアホなこと言ってる場合か。

 

ともかく私は若干厄介な体質であり、大いに面倒くさい患者となりました。

当時の主治医はこれ以降、私への薬剤投与を必要最小限に留めるようになりました。

 

ミスは起こりうる

そんなこんなで飲み薬も点滴にも反応しがちな私。

大人になって何度目かのアブレーションをすることになりました。

 

医師(現在お世話になっているハンサム主治医ではありません)から同意書をサインする前の説明が行われます。

医師「えーと、これで終わりかな。アレルギーなかったよね?」

私「△△(抗生剤の名前)でアナフィラキシーとお伝えしてましたが」

医師「え!?本当に!?△△系のやつオーダーしてる!」

私「ええ!!やめてください~。アブレーションどころじゃなくなりますから」

医師「アレルギーの話、聞いてたかな?」

私「はい、言ってましたし(入院の際提出する問診票のような)紙にも書きました」

医師「そうか…。ごめんごめん。でも聞いて良かった〜」 

私「言って良かった〜」

 

先生たちが受け持つ患者は多くて。

こういうことはあってはならないことだけれど、ありがちなことでもあります。

でも私は先生以外にもショックついて話していましたし、聞かれていました。このときは緊急入院でもなかったので、このオーダーミスを指摘する人がいなかったことは少し残念に思いました。

 

これから書くことは大したミスともいえないでしょうし、患者経験の長い人ほどこういう経験はされていると思います。むしろあるある話。

 

例えば、入院中に看護師さんから配られる薬。

明日の朝はストップと言われていたのに配られるとか、待てど暮らせど来ないとか。

そもそも先生が処方するのを忘れることも(薬剤処方箋記入を研修医に任す先生もおられ、たまにこういうことがあります)。

自己管理をさせてもらえるようになればそれほど問題ありませんが、小さなお子さんやかなり年配の方だと無理なので看護師さん頼みです。間違っていること自体気が付かないケースもあるでしょう。

 

あと、外来でもたまーにありますよね。

受け取った薬の中に「…これはどちら様の薬でしょうか」というものが混じっていることや、薬の数がちょっと合わないとか。

私は外来で受け取った薬は必ず数まで確認してから帰るようにしています。

また受け取りに行くのは嫌…。

 

 

 入院中の検査だと、ときどき検査そのものをすっかり忘れられていることもあります。

「今日〇〇って聞いてたけど…」というと「あ!ごめん!」とか。

あるいは、例えば24時間蓄尿しなければならないのに(検体として必要らしい)、普段朝~翌朝までで処分してしまう流れでつい同じように処分されてしまい、一から検査やり直しとか。

 

検査に連れて行ってくれた車いすの酸素ボンベが残ゼロで、ただただカニューラを鼻に突っ込んでただけだったとか(私はそのレベルの酸素吸入で良いから笑い話で済みますが)。

 

細かいことを言い出せば、きっともっとたくさんあるのではないでしょうか。

 

私は、どんなに信頼している先生や看護師さんだとしても、人間である限りミスを起こしてしまう可能性がある、と思っています。

 

正直、私のアナフィラキシーショックレベルの経験をされている方もそこそこおられるはずで、さほど特別なことではないだろうと思っています。

とはいえ私は、ああいう形でアナフィラキシーショックになるのは二度とごめんです。

 

今はダブルチェックや、入院中はネームバンドのバーコードチェックもあります。

おそらく昔よりはるかにミスは減っていると思います。

でも、十分に気をつけていても、時間的ゆとりや人員確保ができていなれけば「あ!」ということは起こりえます。

 

 だから私は

医師や看護師を信頼はしても信用しすぎない

ようにしようと思っています。

 

それは決して医療者に対して失礼なことではなくて、お互いが治療に万全に臨むために大切な意識であると思っています。

ということで、疑問に思うことや納得のいかないことは(基本的には小心者なので緊張しつつ)確認するようにしています。そこで間違いが見つかることだってあります。

 

処置中や手術中は患者自身で防ぎようもないけど、でも。

患者側がいつも細かいことを聞いていると、割と注意を払ってくれるようになるのは事実です(クレーマーになるのとは違います)。

 

 

私は医療者に対して尊敬の念を持っています。

でも神様のように見える医師も、医師に言えない気持ちを聞いてくれ支えてくれる看護師も、患者側と何ら変わらぬ同じ人間なのだということを忘れてはいけないとも思っています。

 

人間が人間である限り、ヒューマンエラーはなくならない。

そう考えています。

トンネルの中にいた

11歳の夏に「薬が飲めるようになるための手術」をした私の状態は安定しませんでした。

退院してからどう体調を崩して、どうあんなに長い期間入退院を繰り返すことになったのかは、もはや思い出せません。でもあの頃の思い出といえば病院での生活でした。

 

飲めるようになったはずの薬は副作用ばかりが表面に現れてしまいました。

飲む前からたぶんうまくは行かないだろうとわかっていた薬に挑戦したこともあります。

 

波はそれほどひどくなく

ある日の朝、私はものすごく体がだるく、重く感じました。その日の朝食についていたのはバナナを半分にカットしたもの。食べられなくて残したのを覚えています。

看護師さんがやってきて「ぱきらちゃん、おしっこ出てる?」と聞かれます。

出てるような気もするんだけどなと曖昧に返事をしたような気がします。

だるかったけれど、それなりに元気だったし。

 

でも、母が洗濯か何かをしに部屋を出ている間に急遽ナースステーションに連行され、処置室のベッドに寝かされ、あれよあれよと言う間に心臓血管外科の先生たちに囲まれました。

あ、部長先生もいるなと思っていると、

「ぱきらちゃん、胸にお水が溜まっているから今からお水を抜くね」とのこと。

胸に水…?

あまり良くないことなのは理解できました。

 

麻酔の注射をどこにされたか覚えてないけど、意識はしっかりある状態で水抜きが始まりました。

 

結構な量が体から抜かれました。詳しい数字を聞いたけど忘れちゃった。

それよりも私は「水って言ってたのに赤いやん…トマトジュースみたい」とぼんやり思っていました。

 

母はそばにいなかったことを悔やんでましたが、仕方ないですよね。

 

けれど、大きな波があったのはある意味この程度でした(アナフィラキシーショックの2回目がありましたが、それはまたこの次でお話したいと思います)。

 

静かなる、エネルギーが必要な日々

明らかに、私はしんどい。

毎日しんどくて、日常生活を送れるまでの体調ではない。

でもそれがどこから来ているのかわからない。

では、と試す薬が効かない(副反応の方が強い)。

 

入院しているのだし、何より脈の乱れがあるのでさすがにそんな風に言われたことはありませんでしたが、下手をすれば私がそのときの気分でしんどいフリをしている、怠けているのではないかという風に思われかねない状況でした。

事実、もしかして精神的な問題もあるのかも、と安定剤を処方されたこともありました(ひたすらぼんやり、眠くなるのがしんどさに重なり終了)。

 

外科からすれば面倒くさい話です。

外科は切った貼ったがメインの治療法。私のような内科的な治療は得意ではない。

結果、主に治療するのは小児循環器科の役目となりました(外科と常にカンファレンスは行っています)。

 

私がキャッキャうふふと笑っても脈が乱れ出したときには、当時私についてくれていた研修医の先生が「ぱきらちゃん、しんどくなるから喜怒哀楽やめて」などと、冷静に考えるとなかなかひどいお願いをされたこともありました笑

それだけ手詰まりだったのでしょう。

 

 ☆

「答えが出ない」「明確な治療法がない」というのは精神的にとてもしんどいものです。

私もだけど、家族も相当辛かったと思います。

今思うと、出口が見えないトンネルの中にずっといる気分でした。

 

それでも母が付き添ってくれていて良かったと思っています。

母はしんどいと言うときの私を克明に記録していました。

食後○分後〜、○○の状況になると辛そう、顔色は〜とかなんとか。

 

私はその母の行いを見てきたので、自分がしんどい状況にあるとメモするようにしています。

「ぱきらさん、それは何分くらい続いた?」

「えーと、〇時半~〇時までです」

「その前にしたこととかある?」

「トイレには行きました。あと、関係ないかもですけど生理中でした」

「その時のサチュレーションわかる?」

「はい、〇〇でした」

…などなど。

皆さんも状況説明のプロでしょうけど、私もトッププロ目指しています。

情報提供は患者の役目で、大切な任務、それを教えてくれたのは間違いなく母です。

 

 

脱線しました。

 

そんな風に私を熱心に見てくれていた母は、私がしんどいと言うときのとある特徴を掴んでくれました。

「先生、この子しんどい言うときに〇〇の血管が浮いてる」

時間はかかったけど、母のこの指摘が次の治療への手がかりとなりました。

 

内科から外科へ、再び。

再手術です。

 

私は「手術!私手術できるんやって!」

と看護師さんたちに喜び勇んで伝えまくり(看護師さんたちは知っているのにね)、さあ早く切ってくれ、今すぐ切ってくれという勢いでした。

 

もちろん怖さはあるし、痛いのだって嫌に決まっています。

でも治療の糸口が見えた。手術という、これぞ治療という感じまでたどり着けた。

これが子ども心にもどれほど嬉しかったことか。

手術前日も張り切って寝たのを覚えています。

 

 

どんな状況でも諦めないことが大切、と言うフレーズはよく聞きます。

 

もちろん諦めちゃいない。

 

でも、手段が見当たらない中で一日一日積み重ねて行くのはとてもエネルギーが必要となります。

トンネルのずっとずっと先に、細くて小さな光が見えるはずだと信じ続けるのは正直しんどい。

 

疾患があって入院していると伝えると、たいていの人は「なんかめっちゃすごい治療してる」と思われます。

でも案外そうでもなくて。

地味に、静かに、この嵐から抜け出ることができることを願って医療者と日々を過ごしていたりします。

 

そしてそういう人は多いのではないでしょうか。今日、このときも。

 

文章にすればさほど大変でもなさそうな私の入院生活。

でも私や家族は確かにそこに生きていました。

 

みんな一人ひとりそれ相応の苦労があり、悲しみがあり、喜びがある。笑顔の下に隠れた生の生活がある。

 

それを見知らぬ人からたやすく批評されることには違和感を覚えます。

そして何より、見知らぬ人から私が不幸であるかのように決めつけられるのは許しがたい。

私が幸か不幸かは、私とその家族だけが決められると私は考えています。

 

今の社会に漂う「普通であることの優位さ」のようなものはなんなのでしょう。

みんなそこに生きている、あなたとたいして変わらぬ人間なんだけどね。

 

 

さてその後。

2回目の手術は執刀医が交代となりました。

心臓血管外科の部長先生曰く「今度の先生は丁寧に縫ってくれるよ」だったそうで、母は「1回目も丁寧に縫え」と思ったそう笑

ばっちりケロイドにはなったものの、おかげさまで?丁寧に縫ってもらえました(中身の縫い方までは知らんけど)。

 

私はその手術からそれほど長い時間を病院で過ごすことなく、退院となりました。

 

ようやくトンネルを抜けることができたのでした。

 

夢は叶わなかったりするけれど

新年明けましておめでとうございます。

昨秋から始めたブログ。週に一度の更新を目指しつつ、今年もゆるゆる続けて行けたらと思っています。

読んでくださる皆さま、今年も宜しくお願い致します。

 

あなたの夢はなんですか?

新年を迎えたことですし、年始によくある「夢」の話をさせてください。

これをご覧くださってる方は、「あなたの夢は?」と聞かれるどう答えますか?

 

私は子どもの頃から答えに詰まります。

何になりたいかがないんですよね。

そういえば中学生の頃に授業で順番に夢を言わされたのですが、とっさに出た答えは「お嫁さん」でした。

は、恥ずかしい…。

でも本当にそうだったんだと思います。

「平凡であること」を夢見ていた気がします(結婚することが平凡がどうかはさて置いて)。

ちなみにその時質問してきた先生は微妙な笑顔でスルーしたのでちょっと傷つきました。結婚できないと思ったんだろうなぁ。

…しちゃったわよ、先生。すごいだろ。ふふん笑

 

 

その後ぼんやり医療や福祉関係に関わりたいと思ったものの、医師や看護師は私の体力や脳みそ具合では無理。 

薬剤師や医療ソーシャルワーカー(MSW)にも憧れました。

あとは図書館司書になりたかった時期もあり図書館司書資格は取ったものの、実は図書館司書さんは体力勝負であることを知って資格取得で満足しました。

そんなこんながあり、いつの間にやら「就労不可」と診断書に書かれる状態で今に至ります。

 

夢を持ち続けることの難しさ

「夢は願えば叶うもの」というアスリートや一流と呼ばれる人たちの言葉。

それは確かにそうでしょうし、彼らはその夢のために歯を食いしばって努力し、またその叶った夢を継続し続けるために更なる努力をし続けているのだと思います。

その人たちの言葉には重みがある。

そして子どもたちにはそんな人たちの言葉を、キラキラと受け止めて欲しいとも思っています。

 

でも。

私はどうやらかなり早い段階から冷めた考え方になっていました。

 

 

「夢は寝て見るもの」

 

 

こんな風に考えていました。

なんてかわいくない…笑

 

努力でどうにかならないこともある。

夢を叶える努力ではなく、夢を諦める努力をする人間だっている。

夢は叶えることができる人とできない人がいる。

 

いつからかそんな風に思っていましたし、今でもその考えは間違っていないと思っています。

 

それでも、今は当時の私とは違い明確な夢を持ち、それを叶えるために頑張っている心疾患の人や他の疾患の人を見かけるようになりました。

素敵だな。素晴らしいな。

そう思う一方で、私は小さい人間なので笑 正直軽い嫉妬も覚えます。ああ、私にはできなかったことを成し遂げようとしているんだなって。

もちろん、それぞれが私には考えも及ばない努力をしているからなんですけども。

 

でも、夢を持ち続けることはとても難しい。

 

やる気や気合いのような精神論や、努力が足りないといったものとは明らかに別の、体調の問題で夢を諦めざるを得ないときがやってくるかもしれない。

努力して挑戦して、それでも力及ばずだったから諦めるのとは明らかな違いがある。

それはとても悲しくて、いたたまれなくて、傷つきます。

そんな思いをする人が少なければ良いな。

 

けれどもし体調の問題で夢が叶わなかったとしても。

あなたはあなたのできる限りの努力をしたと思うから。

そこは、自分で自分を抱きしめちゃうくらい褒めて、自分を誇りに思って欲しいのです。

だってあなたはすでに私や、たぶん私だけではないいろんな人に嫉妬させている。

挑戦できたんだ、すごいなって。挑戦できる位置に一瞬でも立てたんだなって。

だから正々堂々胸を張ればいい。

 

…とはいえこういうことって、たぶんこの年になったから言えるんだろうなぁとも思います。

そんな簡単に受け入れられないよね。

難しいなぁ。

 

そういえば夢について書いているうちに、思い出したことがあります。 

 

私は結婚することはないだろうと思っていた時期に、シングルの心疾患患者だけで暮らすシェアハウスのようなものができないかと、割と真面目に考えていたことがありました。

お互いが助け合い、倒れたときには救急車を呼びあい、体の辛さを聞きあって言い合えるような。

 

私にとってあれは夢の一つだったのかもしれません。

 

さて、結婚していなければ実現できていたでしょうか。

いろいろと努力して行動を起こしていたとは思うけど…実現できたかというと、難しかったのではないかと思います。

 

「夢を持つ」って本当に大変で難しくて悩ましいですね。

 

 

夢は叶ったり叶わなかったり、というかそれは夢として掲げていいのか?というくらいだんだんと小さな夢に変化していくけれど。

叶おうが叶うまいが、そこに至るまでの過程があなたと私にとって豊かなものでありますように。

 

ちなみに、私の小さな夢をひとつ。

昨春は夫とUSJに行く予定でしたが入院してあえなく断念。

ということで、この春はUSJに行くぞー!

 

叶わないかもしれないけれど。

わくわくホテル選びから始めます。

 過程をね、過程を楽しむのよ!笑

師匠は小学4年生

入院すればそこに出会いがあります。

大人になると(今では病室ではカーテンを引いていることもあり、なおのこと)同室の人とお話しする機会は減ってきますが、子どもの時は割とそのハードルが下がります。

そして多くの人に出会います。今日は私が経験した出会いの話です。

 

師匠!

11歳の入院中に出会ったその男の子、そうくん(仮名)は大人びた子でした。

私の一つ下なので、まだ10歳だった彼。

私が入院するかなり前から入院していたようで、看護師さんたちとも親しげに過ごしていました。同じ部屋になる時・ならない時といろいろでしたが、お互い長期戦に突入していたので仲良くなっていました。

彼はいろいろと私に教えて(知恵を授けて)くれました。

「ぱきらちゃん、そんなん先生に言わなあかんで」

不調をきちんと伝える大切さを教えてくれたのは彼です。

「あの△号室の〇〇さんはもう長いことおるんや」と他の病室の人たちの情報も豊富でしたし、「あの看護婦さんは〇〇やねんで」といった、そんな個人情報どこから入手してんと突っ込みたくなる話も聞かせてくれました。

 

彼は心疾患がメインではなかったようです。主体となる疾患にプラスされて心疾患があり、私が入った病棟に入院しているようでした。

 

彼の入院する前の写真を見せてもらったことがあります。

写真の中のそうくんはとても細かった。でも目の前のそうくんはまん丸としていました。特に顔が丸い。

ムーンフェイスでした。

私はこの頃初めてムーンフェイスという言葉と状態を知りました。

そして彼が「この薬の影響やねん。魔法の薬やで」と教えてくれたその薬はプレドニンでした。そうくんには多毛等ほかの症状も出ていたと思います。私の中でステロイドはそうくんを楽にする薬であり同時に副作用をもたらす、いろんな意味で「魔法の薬」なのだと強烈に記憶に刻み付けられました。

 

彼はとても頭の良い子だったのだなと大人になって改めて感じています。

決して良い状態ばかりではなかったはずだけれど、にこにこと毎日を過ごしていました。彼のことを悪く言う看護師さんも見たことがありませんでした(長期間入院していれば、あの看護師さんはあの子が苦手…とか思っていることがわかるようになります。子どもはエスパーですから)。

自分の状態をとても冷静に見ていました。

辛いことも多かったと思いますが、感情的になる彼の姿はほとんど見たことがありませんでした。

三者的視点で物事をみていたように思います。

あの時はわからなかったけれど、私はあの時「冷静になること」がとても大切だと学びました。感情的になっても良い。でも一歩引いて判断を下す必要がある

その考えは今でも変わりませんし、自分を支える大切な考え方の一つだと思っています。

そうくんは私の師匠です。

 

 たぶん、大人になりたくて

そうくんは頑固でした。

お母さんが付き添いをしようかと言っても、家が遠いこと、下にきょうだいさんがいることもあり「ええねん、僕は一人で大丈夫」と言い続けていました。

今にして思えば、経済的なことも心配していたのだと思います。

付き添い入院はお金がかかる。それは子どもながらに私も感じていたことですから…。

 

そんなそうくんを見ていて、私は母に付き添ってもらっていることが恥ずかしいなと思う時がありました。

でも私は私だし、彼は彼。次第にそう思うようになりました。

体の状態、性格、生活状況はそれぞれ違うのだから。

それにそうくんも私の母に「おばちゃんおばちゃん、今日こんなんあってんで」といろいろと話をしていたので、それがある種の彼のガス抜きとなっていたのかも…と都合の良いように解釈しています。

 

そして私は病院での生活によるものか、私の本来の性格なのか、そうくんの影響なのか、看護師さんに

「ぱきらちゃんは大人びてるというより中身がおばちゃん」

と言われるまでに成長(?)しました笑

 

私はそれが嬉しかった。早く大人になりたかった。

悲しくて泣いても解決なんてしなくて、このしんどさや辛さを医師や看護師、母にきちんと伝えたかった。伝える力が欲しかった。

私は子どもの頃から今に至るまでずっと「伝える」力を欲し続けています。

きっとそうくんも早く大人になりたかったんじゃないかな。

そう思うことがあります。 

 

私とそうくんは誕生日が近かったので、長期入院組で(他に入院患者さんもおらず迷惑がかからない状態だったこともあり)誕生会をしました。

ケーキを買ってきてもらって、でも私もそうくんも当然パジャマで。

言ってしまえばそれだけのことなんだけど、特別な12歳の始まりでした。

 

 

そうくんとは退院して数年の間は連絡を取り合っていました。

が、お互いだんだんと自分の生活で手いっぱいになるし、思春期で照れもある。

いつの頃からか連絡を取らなくなりました。

 

今、どうしているかな。

元気(体調が落ち着いているという意味)で暮らしているかな。

大人になっているかな。

お互いすっかりおばちゃんとおっちゃん。

理想の大人とは違うだろうけど(私だけかも…笑)、生きて大人になっていると良いなぁ。

 

 

あなたにとっての「師匠」はどんな人ですか?