トンネルの中にいた
11歳の夏に「薬が飲めるようになるための手術」をした私の状態は安定しませんでした。
退院してからどう体調を崩して、どうあんなに長い期間入退院を繰り返すことになったのかは、もはや思い出せません。でもあの頃の思い出といえば病院での生活でした。
飲めるようになったはずの薬は副作用ばかりが表面に現れてしまいました。
飲む前からたぶんうまくは行かないだろうとわかっていた薬に挑戦したこともあります。
波はそれほどひどくなく
ある日の朝、私はものすごく体がだるく、重く感じました。その日の朝食についていたのはバナナを半分にカットしたもの。食べられなくて残したのを覚えています。
看護師さんがやってきて「ぱきらちゃん、おしっこ出てる?」と聞かれます。
出てるような気もするんだけどなと曖昧に返事をしたような気がします。
だるかったけれど、それなりに元気だったし。
でも、母が洗濯か何かをしに部屋を出ている間に急遽ナースステーションに連行され、処置室のベッドに寝かされ、あれよあれよと言う間に心臓血管外科の先生たちに囲まれました。
あ、部長先生もいるなと思っていると、
「ぱきらちゃん、胸にお水が溜まっているから今からお水を抜くね」とのこと。
胸に水…?
あまり良くないことなのは理解できました。
麻酔の注射をどこにされたか覚えてないけど、意識はしっかりある状態で水抜きが始まりました。
結構な量が体から抜かれました。詳しい数字を聞いたけど忘れちゃった。
それよりも私は「水って言ってたのに赤いやん…トマトジュースみたい」とぼんやり思っていました。
母はそばにいなかったことを悔やんでましたが、仕方ないですよね。
けれど、大きな波があったのはある意味この程度でした(アナフィラキシーショックの2回目がありましたが、それはまたこの次でお話したいと思います)。
静かなる、エネルギーが必要な日々
明らかに、私はしんどい。
毎日しんどくて、日常生活を送れるまでの体調ではない。
でもそれがどこから来ているのかわからない。
では、と試す薬が効かない(副反応の方が強い)。
入院しているのだし、何より脈の乱れがあるのでさすがにそんな風に言われたことはありませんでしたが、下手をすれば私がそのときの気分でしんどいフリをしている、怠けているのではないかという風に思われかねない状況でした。
事実、もしかして精神的な問題もあるのかも、と安定剤を処方されたこともありました(ひたすらぼんやり、眠くなるのがしんどさに重なり終了)。
外科からすれば面倒くさい話です。
外科は切った貼ったがメインの治療法。私のような内科的な治療は得意ではない。
結果、主に治療するのは小児循環器科の役目となりました(外科と常にカンファレンスは行っています)。
私がキャッキャうふふと笑っても脈が乱れ出したときには、当時私についてくれていた研修医の先生が「ぱきらちゃん、しんどくなるから喜怒哀楽やめて」などと、冷静に考えるとなかなかひどいお願いをされたこともありました笑
それだけ手詰まりだったのでしょう。
☆
「答えが出ない」「明確な治療法がない」というのは精神的にとてもしんどいものです。
私もだけど、家族も相当辛かったと思います。
今思うと、出口が見えないトンネルの中にずっといる気分でした。
それでも母が付き添ってくれていて良かったと思っています。
母はしんどいと言うときの私を克明に記録していました。
食後○分後〜、○○の状況になると辛そう、顔色は〜とかなんとか。
私はその母の行いを見てきたので、自分がしんどい状況にあるとメモするようにしています。
「ぱきらさん、それは何分くらい続いた?」
「えーと、〇時半~〇時までです」
「その前にしたこととかある?」
「トイレには行きました。あと、関係ないかもですけど生理中でした」
「その時のサチュレーションわかる?」
「はい、〇〇でした」
…などなど。
皆さんも状況説明のプロでしょうけど、私もトッププロ目指しています。
情報提供は患者の役目で、大切な任務、それを教えてくれたのは間違いなく母です。
脱線しました。
そんな風に私を熱心に見てくれていた母は、私がしんどいと言うときのとある特徴を掴んでくれました。
「先生、この子しんどい言うときに〇〇の血管が浮いてる」
時間はかかったけど、母のこの指摘が次の治療への手がかりとなりました。
内科から外科へ、再び。
再手術です。
私は「手術!私手術できるんやって!」
と看護師さんたちに喜び勇んで伝えまくり(看護師さんたちは知っているのにね)、さあ早く切ってくれ、今すぐ切ってくれという勢いでした。
もちろん怖さはあるし、痛いのだって嫌に決まっています。
でも治療の糸口が見えた。手術という、これぞ治療という感じまでたどり着けた。
これが子ども心にもどれほど嬉しかったことか。
手術前日も張り切って寝たのを覚えています。
どんな状況でも諦めないことが大切、と言うフレーズはよく聞きます。
もちろん諦めちゃいない。
でも、手段が見当たらない中で一日一日積み重ねて行くのはとてもエネルギーが必要となります。
トンネルのずっとずっと先に、細くて小さな光が見えるはずだと信じ続けるのは正直しんどい。
疾患があって入院していると伝えると、たいていの人は「なんかめっちゃすごい治療してる」と思われます。
でも案外そうでもなくて。
地味に、静かに、この嵐から抜け出ることができることを願って医療者と日々を過ごしていたりします。
そしてそういう人は多いのではないでしょうか。今日、このときも。
☆
文章にすればさほど大変でもなさそうな私の入院生活。
でも私や家族は確かにそこに生きていました。
みんな一人ひとりそれ相応の苦労があり、悲しみがあり、喜びがある。笑顔の下に隠れた生の生活がある。
それを見知らぬ人からたやすく批評されることには違和感を覚えます。
そして何より、見知らぬ人から私が不幸であるかのように決めつけられるのは許しがたい。
私が幸か不幸かは、私とその家族だけが決められると私は考えています。
今の社会に漂う「普通であることの優位さ」のようなものはなんなのでしょう。
みんなそこに生きている、あなたとたいして変わらぬ人間なんだけどね。
さてその後。
2回目の手術は執刀医が交代となりました。
心臓血管外科の部長先生曰く「今度の先生は丁寧に縫ってくれるよ」だったそうで、母は「1回目も丁寧に縫え」と思ったそう笑
ばっちりケロイドにはなったものの、おかげさまで?丁寧に縫ってもらえました(中身の縫い方までは知らんけど)。
私はその手術からそれほど長い時間を病院で過ごすことなく、退院となりました。
ようやくトンネルを抜けることができたのでした。