祈りのようなもの
Twitterで見かける病児・障害児のお母さんたちのつぶやきの数々。いえ、お父さんもおみかけしますが…ここはお母さんで。
お母さんたちはいつも一生懸命で、頑張っていて、張り詰めていて、それでも世界は回って日常があって、生活がある。
他者から見れば「前向き」に見えるだろうお母さんたちのその姿、本当は別に前向きなわけではなくて。そうして踏ん張らなければ日々を維持できないからやむを得ず「前向き風」になっているだけでしょう(ナポリ風みたいに書いちゃってごめんなさい)。
そんな日常から離れて時々息抜きしてても、やっぱりお子さんのことが頭から離れなくて。
胸がいっぱいになります。
そして、私の母もそうだったのだろうと想像します。
昔見た母の姿が、いろんなお母さんのつぶやきに重なります。
Twitterで私をフォローしてくださるお母さんたち(中にはお父さんもおられます)を見かけては、フォローバックしようか悩みます。
フォローしても、そのお母さん、お父さんたちのつぶやきが痛く感じてしまうときがあって。
そっとそのままにしておくことも多いです。
それでも、私をフォローしてくださってありがとうという気持ちでいます。私のアホなつぶやきを見てなんらかプラスに感じて貰えるなら幸いです。
母という人
私の母。
今でも私が体調を崩して入院しては、心配してハラハラしていることでしょう。
いい歳ぶっこいて、いつまでもいつまでも申し訳ない。
でもこればっかりはどうしようもなくて、だからなるべく心配かけないよう笑っていようと思っています(人によってはその私の態度が緊張感がないだのヘラヘラしてるだのと思われちゃうんですが…)。
私の母は…私がある程度安定するときまで、眉間に皺を寄せて常にピリピリしていた気がします(小学校とのやりとりも眉間の皺の原因の一つだったとは思います)。
とはいえその安定していた期間もあまり長くはなくて、ピリピリは地味に長くずーっと続いていたのかもしれません。
そしてそばに同じような病児がいなかった中、母は孤独を感じていたかもしれません。
時代は違えど、今のお母さんたちと気持ちにさほどの違いはないでしょう。
☆
ところで私は、私が結婚したら母はどうなるのだろうかと内心心配していました。
なんというか、やはり常に一緒にいた娘でしたから。自分が支えるべき子どもがそばからいなくなると気が抜けちゃうんじゃないかとか思っていました。
ところがどっこい。
母は父とコツコツお金を貯めて観てみたかったという歌舞伎を観に行き(海老蔵さんは男前だったそう)、行ってみたかった相撲観戦に行き(昔の力士に比べてでっかいんだそう)、誰それのコンサートに行き、近場のバス旅行にでかけ…と私がいた頃には考えられないくらいのアクティブさを発揮し始めました。
確か、行ったことがないからと東京ディズニーランドにも行ってた気が…。
え?何なの?
そんなに行動的でしたけっけ?
驚きもありつつ、安心して笑っちゃいました。
そうか、今までは私一人を家に残したまま外出することにどこか気兼ねがあったんだね。
それとも、家に私を一人残して急にしんどくならないか不安だったのかな。
そんな風に考えています。
ここ数年は母自身の体調のこともありあまり外出していないようですが、私が親元を離れることでようやく、母は自分の時間を持てるようになり、楽しめるようになったのかもしれません。
良かった。
本当に良かった。そう思っています。
一つ付け加えておきたいのは、私と母の関係性は、私と母とでなければ成立せず、皆さんにこのようになって欲しいということではありません。
今回の私のこの記事によって、「母と常に一緒にいる自分って…」とか思われる方がいらしたら、そんなこと考える必要はないと断言できますし、大人になってからも変わらずフォローが必要と考えられるお子さんもおられて、そのお母さんたちが「うちとは違うから」とやりきれない気持ちになる必要もありません。
こういうケースもあるよという、母と娘の一つの例をお伝えしたかったに過ぎません。
今は出口が見えずとも
親子関係は人それぞれです。
私も、両親とはそれなりに良い関係が築けていると思っていますが、それとは別に感じるところがあります。結婚を機に、両親と距離を置けてホッとしている部分もありますし。
明らかに親子関係がこじれている家庭もあります。正直、親御さんを憎んでいる人もいるでしょう。でも私はそれが間違いだとも思いません。きっとそう思うに至るプロセスがあったわけで、安易に「親には感謝しなきゃ」とか言う気にはなれません。
それぞれがとても複雑で、そう簡単に他人が口出しできることではありません。
だからみんながみんな私と同じような気持ちではないかもしれません。
加えて私には子どもがいなくて、子を持つ母の気持ちというものはわかりません。
だからきっと、本当の意味でお母さんたちに寄り添うことはできない。
でも私は昔、病児の一人でした。
病児だった頃の私の気持ちはいつまでも新鮮にここにあります。だから思うのです。
お母さんたち、いつもありがとう。
大変な思いさせてごめんね。
私が生まれて人生狂ったかな?ごめんね。
私もそこそこ大変な思いをしてるので、そこはおあいこで許してね。
それからお母さん、あなたは決して一人じゃないよ。
例えば私の母や、私の知る病児だった人たちのお母さん方。平坦とは言えないその道を、みんな、なんとかかんとか生きて来ました。
中には道半ばで旅立った子たちもいるけれど、その時その時でみんな力いっぱい努力したよ。
病名や状態や生活環境。それぞれ違って同じ人なんていないけど…その辿って来た道のりの山あり谷あり具合はそこそこ似てる部分があると思うのです。
身近に同じような境遇の人がいなくても。
過去にも、確かに病児のお母さんたちはいたから。
そして、張り巡らされたいろんなトラップ(困難というより、もはや罠ですよ罠)をそれぞれの母とくぐり抜けて、今の私たちがいるのです。私たちの「今」に、それぞれの母の存在は欠かせなかった。
隣の芝生は青くてピカピカに輝いてさえ見えるかもしれません。でも「私だけ、私の子どもだけ」という深みにはまらないでいて。
ネガティブになるのは当たり前で、常にポジティブなんてわけにはいかない。
心が沈むときはどーんと沈めば良い。
それでもなんとか浮き上がって来て欲しい。
ひとりぽっちだと、思わないで。
今は出口が見えなくても。
いつか、今あなたの目の前にいるお子さんの体調が安定しますように。お子さんと穏やかに過ごせる時間が増えて来ますように。
お子さんの体調を気にしてアンテナ張り巡らして…そんな風に気を張る時間が少なくなりますように。
そしてふと、「〇〇ちゃんのお母さん」ではなく、一個人の「△△さん」として羽を伸ばして息ができるようになればと祈っています。
一人の元病児として、 祈っています。
頑張って。
でも頑張りすぎないで。
できればニコニコしていてね。
でも、こっそりいっぱい泣いてもいいからね。
伝わるかな。
伝わればいいな。
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病者としての私の想いはこちらです。