一年後に会いましょう
例の新型肺炎の影響で、世間がザワザワしています。
不安は不安を招くので、できるだけ新型肺炎に関する発言はしないように意識しています。
でも、少しだけ。
(コロナのコの字も聞きたくないわという方は、どうぞページを閉じてください)
怖いもんは怖いんやで
「疲弊」
自分の精神面と世間の雰囲気 、今一番しっくり来る言葉はこれではないかと感じています。
毎日毎日繰り返される新型肺炎のニュース。
増える感染者数。
亡くなる人の数(そしてその中に志村けんさんが含まれたこと)。
不要不急の外出自粛要請と、それを意に介さない人たち。
新型肺炎が「関係ない」と思える人たちは、これまでに周囲で誰かが亡くなるという経験がなかったのだろうか。だとしたら、とても恵まれている。
それとも、最期まで苦しそうだった人を知っているからこそ、今この瞬間を楽しく!と思っているのだろうか。刹那的な生き方で、それはそれで苦しそう。
いずれにせよ、とても気をつけている人とそうでない人との落差に、私はもちろん世間のイライラが募っているように感じます。
☆
私は言わずと知れた(?)先天性心疾患という基礎疾患持ちです。
一般的に言われている
「感染・発症すると重症化、あるいは死亡するリスクの高い人」です。
前回の受診時にハンサム主治医*1に聞くと
「ぱきらさんが感染したら重症化して、場合によっては死の危険だからなぁ」と、内容に釣り合わない呑気さで言われました。
その先生ののんびりした口調も相まってか、私は今回の新型肺炎について、当初怖さはあったものの「まあでも、そのうち落ち着くだろう」と楽観的に捉えていました。
でもじわじわと増え続ける感染者数に、だんだんと「これはヤバいぞ」と危機感いっぱいに。
あの頃の私、ちょっとそこに正座しなさい。
夫とお互い感染したらどうなるかというシミュレーションをしてみましたが、どうにもこうにもバッドエンドです。
非常にまずい。
「正しく恐れましょう」と言われても、ほんとにもう、怖いもんは怖いのです。
そしてそれは私だけではないはずで、基礎疾患のある人やそのご家族は戦々恐々とされていると思います。
もちろん、いわゆる健康な人でも危機感を抱いている人は多くいますが、実際に感染した場合を考えると、やはり格段に危機感が違う。
家庭内「非常事態宣言」を出せるとしたら、もう出まくりです。
それでも、外出をしないようにしていても、どうしても出かけなければいけない場面は出てきますし、家族がウイルスを持ち込むかもしれません。
こんなことが続いたら、張りつめて、はち切れてしまう。
私は怖いと感じ始めるととことん怖いと思ってしまう性質なので、「怖い」を見て見ぬふりをしていた部分があります。
でも、今回はそれでは息が詰まりそう。
だから私は最近、怖いことを我慢しないでおこう、怖がる自分を許してあげようと思っています。
ということで、私怖いです。
いえ、巻き込み系怖い人(なんだそりゃ)になるのは嫌なので、皆さんをお誘いはしませんが、もう、怖いときは怖いで良いかなと思っています。
そうしたら少しだけ、楽になった気がします。
いずれ必ず過去になる
ふと、一年前のこの頃の私を思い出してみました。
きっかけは自分の服装でした。
そろそろ春物の服かなとクローゼットの中をゴソゴソ探すも、春物の服がほとんどない。
ああそうだ、一年前の春、私は入退院を繰り返していたんだっけな。
2月に退院してからは落ち着いてるなとホッとしたのもつかの間、3月31日に心房粗動を再発し入院、4月1日の「令和」発表をなんだかとても寂しい気持ちで病室で見ていたっけ。
で、タイミング悪くハンサム主治医が長期出張のため留守で、初めましての先生(先天性を診た経験なしの純度100%循環器内科医)に診ていただくというスリリングな展開に。
数日間は心房粗動の状態を維持してBNP爆上がり、ハンサム主治医が華麗に舞い戻ってきたところで話し合ってDC(直流除細動器、電気ショックです)*2をしてもらいいったん退院、改めてアブレーションのために入院。
いざアブレーションしたは良いものの、負担の少ないようにと行った鎮静があまり効かず、最終的にぐいぐい挿管され喉を傷めた…のを、思い出してきたぞ…。
うん、ろくでもなかったな。
☆
これは私だけの癖なのかもしれませんが…。
私は入院や強烈にしんどい状態になると、ぼんやりと
「これもそのうち『あんなことあったな』と振り返られる日が来るはず」
と思います。
本当は一週間後の自分さえも不透明だけど、それでも。
この痛みも苦しみも、全部まとめて過去になる。
だから今は堪えろ。
そしていつも、(その結果が自分の求める望ましいものかどうかは別としても)そうした日々は過去になっています。
今回も、そうなると思っています。
ただ今回がいつもと異なるのは、当事者が私だけではないということ。
これまでは感染症にさほど関心がなかった、いわば傍観者だった多くの人も、感染して当事者になる可能性が出てきた。
そしてこれがいつまで続くのかわからない。
これが強烈なまでに人々を不安にさせている要因だと思っています。
自分がしんどいとき、私が「いずれ過去になる」と踏ん張れたのは、ある意味私の周囲が、私の存在など関係なく「日常」を過ごしていたからです。
でも今回は、私もろとも周囲全てが非日常かつ「異常事態」に放り込まれて、関係者になってしまっている。
いずれ過去になると思いにくい。
「今」で手一杯になる。
これが、パンデミックの恐ろしさなのかもしれない、そう感じています。
一年後にお会いしましょう
私は感染症に詳しいわけでもなく、研究者でもないから何もできません。
ましてや医療者でもないので、どうぞ先生や看護師さんを始め多くの医療者が疲れ果て、すり減り、倒れることのありませんようにと願っているだけです。
日々戦ってくれてありがとうと思うのみです。
そしていろんなお店が持ちこたえて倒産を回避できれば良いと感じています。
なによりも、特効薬とワクチンが一日でも早く完成するようにと祈るしかできない。
ですから…予防はそりゃもちろんこれからもするけれど。
結局、最終的に私にできることは、日々、きちんと暮らすことだけです。
それしかできない。
☆
私はいつも心に留めていることがあります。
「今日の積み重ねが未来になる」
とにかく、今日という日を繰り返して過ごします。
その日がしんどくても、楽しくても、悲しくても、喜びに満ちていても。
その積み重ねが明日になり、未来の一歩になる。
その未来の一歩である「明日」が連綿と続いたとき、未来になるとだと考えています。
…とか書くと、「え?何か宗教でも?」と聞かれそうですが、夫も私も何かを強く信仰しているわけではありません。無宗教?
でも何かピンチ!と思うとついお参りしちゃう言うなれば勝手宗教です。
まあいいや。
とにかく、「今日の積み重ねが未来になる」。
それを今一度自分の中に叩き込んで、怖いけれど、毎日過ごしていこうと思います。
一か月先の展望が見えません。
だから一年後なんてもう全く見えません。
もちろん、たとえ一年後終息していたとしても、特効薬やワクチンができていなければ基礎疾患のある当事者、家族にとってはまだまだ静かなる戦いが続くのでしょう。
それでも、一年後には。
そのときは「昨春はコロナコロナで怖かったねぇ」と皆さんで振り返ることができれば良いと願っています。
いっぱい我慢や辛抱、不安な状態が続きますが、みんな無事に、一年後の未来でお会いしましょう。
「今」はいつか「過去」になるから。
目いっぱい、きれいごとだけど、そう願っています。