願いのようなもの
Twitterで見るいろんな疾患や障害のある人のつぶやきに、共感したり切なくなったり。
知らなかった病も多く(重症筋無力症はフォロワーさんたちを通じて初めて知りました)、新しい気づきもたくさんありました。
これほどまでにみんな何かを抱えて生きているのだとは、私は想像していませんでした。
一人ひとり、自分の周りの現実を生きつつ、時折気持ちを発信して発散して共有して。
これがSNSの力なのかと思い知りました。
ブログは、その延長線上にあると考えています。140文字では収まらない想いや考えを出すところなのだと思っています。
私も、そんなブログを書いてみたいと思いました。
私はなんて呑気に生きているのかしらと思うくらいに多くの経験や想いを抱いてる人は多くて、文章にするのが上手な人も多くて。
私に何が書けるだろうと思いつつ、別に何かのコンクールに出すわけでもなし、誰かをひどく傷つけてしまうような文章でなければいいかなと始めてみました。
(もし傷つけてたらほんとごめんなさい)
ゆるゆる、続けられたらと思います。
そうしてブログを見てくださっている方たちと「そうだね」となんとなく分かち合えたら嬉しいです。
ゴールはいずこ?
ところで。
私のように疾患がある、障害がある人たちのゴールはどこにあるのでしょう。
私は先天性だったので、子どもの頃、漠然と大人になれば(何がかはわからないものの)全部解決するのだと思っていました。
いえ、そもそも長生きできるかわからなかったから、大人になることそのものがゴールだったのかもしれません。
でも大人と呼ばれるところへ近づくにつれ、想像していたのとだいぶ違う現実が待っていました。むしろ、成長とともに体調が悪くなっていく。
あれ?
いつまで経ってもしんどいやん。
あれ?
なんか思い描いてた人生と違うやん。
生き続けるには
できる範囲での努力(というか自己管理かな)と、
我慢と、諦めと、
ちょっとした日々の喜びと、
現実を受け入れる覚悟が必要でした。
これらはたぶん、少しずつ差はあるもののどんな疾患の人にも共通することだと思います。
「命があるんだから良いじゃない」
という人がいます。
そうね。命があるからありがたいのかもね。
でも、命がある「だけ」ではダメなのです。
痛みや苦しみやしんどさを忘れて純粋に笑ってられる時間だってなきゃいけない。
心身ともに安定した生活を満喫できる時間だってなきゃいけない。
QOL(Quality of Life:生活の質)の向上を願うことは贅沢なのでしょうか。
修行でしょうか…。
明けない夜はない、と言いますが、
それと同時に
暮れない朝もない
とひねくれた私は思うのです。
体調が安定して、自分なりの日常が送れて。
ああ、いい感じだなと思ってもあっという間に次の不調がやって来る。
不調が来るたびに少しずつ衰えていく自分を感じて、悲しい。
それは本人や家族の頑張りでどうにかなることではなくて。心がかき乱されてもひとまず押しとどめて、何とか気持ちを整えて、改善させるためにひとつひとつ目の前のことをこなして行くしか道はなくて。
だからといって改善するかと言えばそれも微妙。
それの繰り返し。
私はよく「人生は修行!」とか言っていますが、修行期間があまりにも長くてうんざりしています。
これだけ修行してるんだから、みんなもうとっくに悟りを開いて神さま仏さまになって良いレベルなんじゃないかしら。(神仏を信仰してる人にどつかれそう)
最近では、私にとってのゴールは死ぬときなのかなぁと思っています。
そのゴールにたどり着くまで、なるべく穏やかでいたい。
…いや、たぶん無理なんですけどね。
不調は思いもよらないところで、思いもよらない形で現れるし、「いやマジで修行期間が長過ぎるってば!」と何度泣くはめになるのやら…。
それでも穏やかでいたいな。
暮れない朝はないけど、やっぱり明けない夜もないもの。
穏やかな時期もまたちゃんと来るのだと信じながら日々進みたいと思います。
そして、私自身も含めて、疾患や障害のある人たちみんなが、なるべく穏やかでいて欲しい。
今までもそんな風に思ってはいたけれど…Twitterで出会った人たちの言葉を見てからは更に強くそう思うようになりました。
本当は、みんながみんな心穏やかに生活できることなんて無理なのだと、心のどこかでわかっています。
私の言ってることはきっと綺麗事。
それでも私は、それぞれの日常がなるべく笑顔であるよう願っています。
あなたも私も、それなりにしんどくても、そこそこに楽しい人生でありますように。
お互いぼちぼち過ごせますように。
私の願いのようなものです。